カウディナのくびき(2)

カウディナのくびき その二
 夫丁峡谷(カウディナ山道"を冠した論文は膨大な数に上る。さらにそのうえに、カウディナ山道資本主義跳び越え論を中核とした東方社会理論(東方理論、東方社会主義理論、東方社会発展道路)に関する著作を含めると、論文の数は果てしのないものになる。

 さて、上述したように東方社会理論の中核にカウディナ山道資本主義跳び越え論が存在する。東方社会理論という字面から、我々はマルクスのアジア的社会論を想起するであろう。だが、東方社会理論は、アジア的社会論ではない。我々がマルクスのアジア的社会論という場合、アジア的生産様式論を中核としたアジア社会の固有な性格についての議論を指すが、東方社会理論は政治的な意味合いが強く、むしろ東方社会主義論を意味する。つまり、東方社会理論は、東方社会主義理論とか東方社会発展道路というネーミングの方が、議論の実態を正しく伝えている。

 東方社会理論という名称の由来は、マルクスの本来の革命論が西方中心主義に基づくものであったとする考えから来ている。大方の見解をまとめると以下のようになる。
マルクス主義の創始者たちは、ある社会が社会主義に至るためには、必ず資本主義を経なければならないと考えていた。資本主義が実現させた高い生産力、高度に発展した分業を前提として、初めて社会主義への道は切り開かれると考えていた。それゆえ、社会主義への可能性は西欧にのみ存在していた。では、西欧以外の遅れた諸国は、どうすればよいのだろうか。東方の遅れた諸国は、インドや中国のように、資本主義列強=西欧諸国の植民地もしくは半植民地になるしか、道はなかった。西欧列強の搾取や抑圧のもとで、資本主義を経験するほかなかったのである。
 ところが、1870年代初頭のパリ・コミューン敗北や、その後の第一インター解散に象徴されるような、西欧のプロレタリア革命運動の退潮のもと、マルクス主義の創始者たちは、東方へ目を向けていく。とくにロシアの急進的なナロードニキに関心を寄せるようになる。マルクスはロシア語を学びロシアについての理解を深める。
同時期、マルクスは『コヴァレフスキー・ノート』や『モルガン・ノート』に代表されるように、人類学研究もしくは古代史研究を進め、原始的な共同体もしくは農村共同体の概念を発展させていく。
1880年代に入り、ロシアの革命家ザスーリチの手紙に触発され、その回答の下書き・草稿に、ロシアの農村共同体は、幾つかの条件を満たせば、資本主義を経ずして社会主義に到達する、ロシア再生のための拠点となりうる、と述べる。その条件とは、まず、農民を収奪し、農村共同体に寄生することによって成り立っているロシア国家やロシア資本主義を、革命によって一掃することである。ロシアの農村共同体は、西欧の発達した資本主義と同時に存在しているので、そこで創造されたあらゆる成果を、取り込むことができると述べている。この部分は、同時期に書いた、『共産党宣言』ロシア語序文第二版に、「ロシア革命が西欧プロレタリアート革命にたいする合図となって、両者がたがいに補いあうなら」とあることから、革命に成功した西欧プロレタリアートとの提携が前提となっていると考えるべきであろう。

 中国の理論家たちを、心強くさせているのは、マルクスが「ザスーリチの手紙への回答及び下書き」において、次のように述べた部分である。マルクスは『資本論』第一巻において、資本主義制度のもとでの農民の収奪(資本主義草創期の原始的蓄積、すなわち生産者の生産手段からの徹底した分離)の歴史的不可避性について述べたが、それは「明瞭に西ヨーロッパの諸国に限定されて」いるとした点である。つまり、西欧には属さないロシアには、『資本論』で述べた歴史的不可避性は該当しない、ということになる。
ここから、マルクスは晩年、西欧中心史観から脱却して、非ヨーロッパ社会(東方社会)には、西欧とは別の歴史発展コース、より具体的には、社会主義に至る別の道があると考えるようになった、と解する、東方社会理論が成立する。社会主義に至る別のコースとは、西欧の、資本主義を経るコースではなく、資本主義を跳び越えるコースである。
 どうして、ロシアの農村共同体を崩壊の淵(原蓄期における農民の無慈悲な収奪)から救うという議論が、ロシア社会全体の資本主義跳び越え論となるのか、疑問とされるところである。
実際のところ、諸家(東方社会理論支持者もしくはカウディナ山道派)の議論のなかに、納得のいく説明を見出すことはできない。
だが、おそらく、農村共同体の救済のためには、ロシア革命が前提となっていること、また、そのロシア革命が西欧のプロレタリア革命の合図となり、その成功した西欧プロレタリア革命との提携のもと、ロシア農村共同体が社会の新しい支柱となる以上、ロシア革命によって成立する体制は、社会主義もしくはそれに近い性格を持つと考えることは可能であろう。
上記の文脈からして、革命ロシアの政府は、少なくとも、?@西欧プロレタリア革命と連帯可能な政府であり、?A農民の収奪(生産者の生産手段からの分離)を行わない政府でなければならないからである。
だが、この点については、趙家祥「対"跨越資本主義 夫丁峡谷"問題的商 意見」(『北京大学学報』1998年第1期)が、
もし当時ロシアに革命がおこるとしたら、その主導権を握るのは急進的なナロードニキ(人民の意志派)であり、それゆえ、その革命は、到底、社会主義といえるものではなかったことを指摘しているが、そのとおりだと思う。
 前号では、1995年前後のカウディナ山道をめぐる議論を瞥見した。筆者が取り上げた論者たちの多くは、カウディナ山道をめぐる議論に疑問を投げかける人々であった。実は、その多さにやや不思議な感じがしていた。というのも、カウディナ山道を冠した論文および東方社会理論に関する論文は、その後、ますます増えているからである。1990代、2000年代を合わせて、おそらく数百、多分、二百や三百ではとても収まらない数の論文が発表されていると思われる。そうだとすると、1995年前後の状況において、あのように疑問を投げかける理論家たちが多いとすれば、一体どのようにして議論が進んだのだろうか、と。






カウディナのくびき その二
 夫丁峡谷(カウディナ山道"を冠した論文は膨大な数に上る。さらにそのうえに、カウディナ山道資本主義跳び越え論を中核とした東方社会理論(東方理論、東方社会主義理論、東方社会発展道路)に関する著作を含めると、論文の数は果てしのないものになる。

 さて、上述したように東方社会理論の中核にカウディナ山道資本主義跳び越え論が存在する。東方社会理論という字面から、我々はマルクスのアジア的社会論を想起するであろう。だが、東方社会理論は、アジア的社会論ではない。我々がマルクスのアジア的社会論という場合、アジア的生産様式論を中核としたアジア社会の固有な性格についての議論を指すが、東方社会理論は政治的な意味合いが強く、むしろ東方社会主義論を意味する。つまり、東方社会理論は、東方社会主義理論とか東方社会発展道路というネーミングの方が、議論の実態を正しく伝えている。

 東方社会理論という名称の由来は、マルクスの本来の革命論が西方中心主義に基づくものであったとする考えから来ている。大方の見解をまとめると以下のようになる。
マルクス主義の創始者たちは、ある社会が社会主義に至るためには、必ず資本主義を経なければならないと考えていた。資本主義が実現させた高い生産力、高度に発展した分業を前提として、初めて社会主義への道は切り開かれると考えていた。それゆえ、社会主義への可能性は西欧にのみ存在していた。では、西欧以外の遅れた諸国は、どうすればよいのだろうか。東方の遅れた諸国は、インドや中国のように、資本主義列強=西欧諸国の植民地もしくは半植民地になるしか、道はなかった。西欧列強の搾取や抑圧のもとで、資本主義を経験するほかなかったのである。
 ところが、1870年代初頭のパリ・コミューン敗北や、その後の第一インター解散に象徴されるような、西欧のプロレタリア革命運動の退潮のもと、マルクス主義の創始者たちは、東方へ目を向けていく。とくにロシアの急進的なナロードニキに関心を寄せるようになる。マルクスはロシア語を学びロシアについての理解を深める。
同時期、マルクスは『コヴァレフスキー・ノート』や『モルガン・ノート』に代表されるように、人類学研究もしくは古代史研究を進め、原始的な共同体もしくは農村共同体の概念を発展させていく。
1880年代に入り、ロシアの革命家ザスーリチの手紙に触発され、その回答の下書き・草稿に、ロシアの農村共同体は、幾つかの条件を満たせば、資本主義を経ずして社会主義に到達する、ロシア再生のための拠点となりうる、と述べる。その条件とは、まず、農民を収奪し、農村共同体に寄生することによって成り立っているロシア国家やロシア資本主義を、革命によって一掃することである。ロシアの農村共同体は、西欧の発達した資本主義と同時に存在しているので、そこで創造されたあらゆる成果を、取り込むことができると述べている。この部分は、同時期に書いた、『共産党宣言』ロシア語序文第二版に、「ロシア革命が西欧プロレタリアート革命にたいする合図となって、両者がたがいに補いあうなら」とあることから、革命に成功した西欧プロレタリアートとの提携が前提となっていると考えるべきであろう。

 中国の理論家たちを、心強くさせているのは、マルクスが「ザスーリチの手紙への回答及び下書き」において、次のように述べた部分である。マルクスは『資本論』第一巻において、資本主義制度のもとでの農民の収奪(資本主義草創期の原始的蓄積、すなわち生産者の生産手段からの徹底した分離)の歴史的不可避性について述べたが、それは「明瞭に西ヨーロッパの諸国に限定されて」いるとした点である。つまり、西欧には属さないロシアには、『資本論』で述べた歴史的不可避性は該当しない、ということになる。
ここから、マルクスは晩年、西欧中心史観から脱却して、非ヨーロッパ社会(東方社会)には、西欧とは別の歴史発展コース、より具体的には、社会主義に至る別の道があると考えるようになった、と解する、東方社会理論が成立する。社会主義に至る別のコースとは、西欧の、資本主義を経るコースではなく、資本主義を跳び越えるコースである。
 どうして、ロシアの農村共同体を崩壊の淵(原蓄期における農民の無慈悲な収奪)から救うという議論が、ロシア社会全体の資本主義跳び越え論となるのか、疑問とされるところである。
実際のところ、諸家(東方社会理論支持者もしくはカウディナ山道派)の議論のなかに、納得のいく説明を見出すことはできない。
だが、おそらく、農村共同体の救済のためには、ロシア革命が前提となっていること、また、そのロシア革命が西欧のプロレタリア革命の合図となり、その成功した西欧プロレタリア革命との提携のもと、ロシア農村共同体が社会の新しい支柱となる以上、ロシア革命によって成立する体制は、社会主義もしくはそれに近い性格を持つと考えることは可能であろう。
上記の文脈からして、革命ロシアの政府は、少なくとも、?@西欧プロレタリア革命と連帯可能な政府であり、?A農民の収奪(生産者の生産手段からの分離)を行わない政府でなければならないからである。
だが、この点については、趙家祥「対"跨越資本主義 夫丁峡谷"問題的商 意見」(『北京大学学報』1998年第1期)が、
もし当時ロシアに革命がおこるとしたら、その主導権を握るのは急進的なナロードニキ(人民の意志派)であり、それゆえ、その革命は、到底、社会主義といえるものではなかったことを指摘しているが、そのとおりだと思う。
 前号では、1995年前後のカウディナ山道をめぐる議論を瞥見した。筆者が取り上げた論者たちの多くは、カウディナ山道をめぐる議論に疑問を投げかける人々であった。実は、その多さにやや不思議な感じがしていた。というのも、カウディナ山道を冠した論文および東方社会理論に関する論文は、その後、ますます増えているからである。1990代、2000年代を合わせて、おそらく数百、多分、二百や三百ではとても収まらない数の論文が発表されていると思われる。そうだとすると、1995年前後の状況において、あのように疑問を投げかける理論家たちが多いとすれば、一体どのようにして議論が進んだのだろうか、と。

中国のカウディナのくびき論 (1)

 中国の検索サイト(百度、チャイニーズ・ヤフー)で、 夫丁峡谷と入力してみると、膨大な数の論文が出現する。

胡慧芳「関于跨越"夫丁峡谷"的研究」(jpkc.nankai.edu.cn/course/mks/Data/)
には、1994年から2006年にかけて発表された"夫丁峡谷"を冠した179本の論文及び著作が並んでいる。
かくも論壇をにぎわしている「夫丁峡谷」とは、あるいは「跨越 夫丁峡谷」とは、一体なんのことであろうか。

 夫丁峡谷とは、ローマ史で知られるカウディナ(カウディーネ)山道。『ブリタニカ国際大百科事典』では、カウディヌム山道(Furcule Caudinae)と記され、「古代サムニウムにあった山道。現在の南イタリア、カンパーニア州モンテサルキオ付近。前321年第二次サムニウム戦争のとき、ローマ軍はここでガイウス・ポンチウスの率いるサムニウム軍の罠にかかり、全員降伏させられた」と述べられている。

[カウディナのくびき]とは、具体的には、サムニウム人に敗れたローマ軍兵士が、3本のやりで形づくられた「くびき」を丸腰で通らされたことを指す(小学館『独和大辞典』Kaudinisch の項)。
「それは、敗れた軍隊にとって最大の屈辱をいみするものであった」(『マルクス・エンゲルス農業論集』岩波文庫)。

 では、このカウディナ山道が、一体、中国の理論家によって、如何なる文脈において用いられているのであろうか。
なぜ、この古代ローマ史の出来事が、現在の中国理論界を熱くさせているのであろうか。

それはマルクスが「ヴェ・イ・ザスーリチの手紙への回答への下書き」(1881年)において
「ロシアの共同体は、歴史に先例のない独特な地位を占めている。ヨーロッパでただ一つ、ロシアの共同体は、いまなお、広大な帝国の農村生活の支配的な形態である。土地の共同所有が、それに集団的領有の自然的基礎を提供しており、またそれの歴史的環境、すなわちそれが資本主義的生産と同時的に存在しているという事情が、大規模に組織された協同労働の物質的諸条件を、すっかりできあがった形でそれに提供している。それゆえ、それはカウディナのくびき門を通ることなしに、資本主義制度によってつくりあげられた肯定的な諸成果をみずからのなかに組み入れることができるのである。それは、分割地農業を、徐々に、ロシアの土地の地勢がうながしている機械の助けによる大規模農業に置きかえることができる。現在の状態のもとで正常な状態におかれたあとでは、近代社会が指向している経済制度の直接の出発点となることができ、また自殺することから始めないでも、生まれかわることができるのである。」
(『マルクス・エンゲルス全集』第19巻)と書いたところから来ている。

ロシアの女性革命家ヴェ・イ・ザスーリチは、プレハノフ・グループを代表して、マルクスに手紙を書き、『資本論』第一部にいわれているような、資本主義の歴史的不可避性についてロシアにも妥当するのかどうか、とくにその過程における村落共同体(ミール)の運命について、マルクス自身の意見を求めた。
 上記の引用は、その一部であるが、マルクス主義研究者には、よく知られた一節である。
なお、マルクスは何回か下書きを書きなおした後、簡単な返事を書いたのみで、上記の一節は結局、ザスーリチに送られることはなかった。

孫来斌「跨越資本主義"夫丁峡谷"20年研究述評」(『当代世界与社会主義』2004年第2期)
によれば、カウディナ山道をめぐる議論は、1980年代の栄剣、張奎良らの論考にまで遡ることができる。

張奎良「馬克思晩年的設想与・小平建設有中国特色社会主義理論」(『中国社会科学』1994年第6期)
「マルクス晩年の、資本主義のカウディナ山道を跳び越すという構想は、科学的社会主義理論の初定の枠組みを突破し、はじめて深く、東方の遅れた国家が如何に社会主義を実現するかという問題を、探究したものであり、社会主義思想における新たな開拓であった」

この「資本主義のカウディナ山道を跳び越す」(跨越資本主義 夫丁峡谷)という言い方がもっとも一般的な用法。資本主義はカウディナ山道であり、苦難の道、屈辱の道。それを跳び越すというのは、資本主義段階を経ないで社会主義に移行するということ。
20世紀社会主義でよく使用された、「社会主義への非資本主義的な発展の道」を連想されるであろう。

 なぜ、「初定」(原文のまま)とあるのか…
マルクスは当初、1850年代の「インドにおけるイギリス支配」、「インドにおけるイギリスの二重の使命」に代表されるように、アジア(非ヨーロッパ)の遅れた諸民族・諸国家にとって、資本主義化(具体的には植民地化)は不可避であると考えていた。
また、その資本主義化(植民地化)を通して、古い政治・経済システムを破砕することが可能となるという意味で、植民地化を肯定していた。
しかし、晩年、マルクスはそのような考え方を変更し、アジアの遅れた諸民族・諸国家の、資本主義を跳び越えた、社会主義発展への道を認めるにいたった。
すなわち、「ザスーリチの手紙への回答」において、マルクスは、ロシアは、資本主義(カウディナ山道)を跳び越え社会主義にいたることが可能であると述べており、これはマルクスが、西方社会主義革命とは異なった、東方社会に独自な社会主義への道を提起したことを意味し、20世紀のロシア革命と中国革命は、そのマルクス晩年の構想の正しさを実証するものである。だが、歴史的条件から、ロシア及び中国の社会主義政権は、資本主義から孤立して国内改造を進めざるを得ず、盲目的に、純粋な、社会主義建設を目指して失敗に終わった。それゆえ、資本主義の進んだ生産力、特に、発展した生産技術、科学技術を取り入れつつ進められている、トウ小平の改革開放路線は、まさに晩年マルクスの学説と事業の忠実な継承である、と。

 さらに張奎良は、1870年代末、ロシアの農村共同体に共有制が存在したように、百年後の1970年代末の中国にも、すでに20数年以上実践してきた社会主義公有制があり、マルクスが晩年、ロシアに認めた未来社会への発展の出発点もまた、百年後の中国に備わっており、それこそが、トウ小平の中国の特色ある社会主義の道の出発であると述べている。
彼ら「カウディナ」議論の提唱者たちが、如何なる政治スタンスによって、これらの議論を主導していたのか、理解できる。

 1980年代のアジア的生産様式論争の後半に、新しい世代の論客として登場した孫承叔は、広義の「東方社会理論」の旗手という意味で重要な存在である。
孫承叔「東方社会主義理論的第四次飛躍--トウ小平理論的歴史地位」(『復旦学報』1995年第4期)
は、「ザスーリチの手紙への回答」の一節を引用し、「これはマルクスが初めて、東方社会が資本主義(カウディナ山道)を跳び越えることが可能となる仮説を提出したものであり、これによって我々は東方社会主義の道に関する最初の理論的飛躍と見なすことができる」と評価。ちなみに、第二次理論的飛躍は晩年エンゲルスが、第三次飛躍はレーニンの晩年が、そして最後の第四次飛躍は、トウ小平が担ったとされる。
 張奎良も、孫承叔も、中国の伝統社会がアジア的生産様式にもとづく社会であったと考える点において共通している。さらには、ロシアもまた東方社会に属し、アジア的生産様式のもとにあるということなろう。

 1989年天安門事件以降、中国は異常な緊張に包まれ、1990年代前半は、政治的にきわめて不安定な時期であった。
しかし、1992年から94年にかけ、謝霖、江丹林、劉啓良などによるカウディナ山道をめぐる専著が幾つか出版される(孫来斌,2004)。そして、1994年から1996年にかけ、張奎良、江丹林、王東、徐崇温らによって、東方の遅れた国家による資本主義(カウディナ山道)の跳び越えに関する諸論文が相次いで刊行され、ブームとでもいった状況をつくり上げていった。

 まず、中国の理論家たちの反論。
孫来斌は、カウディナ山道をめぐる議論において中間的な立場をとっており、そのためか、孫来斌(2004)には、カウディナ山道を冠した資本主義跳び越え論に懐疑的な立場の論文が、主要な論文として、幾つも挙げられている。

陳文通「"跨越"夫丁峡谷, 還是"不通過"夫丁峡谷?」(『当代世界与社会主義』1996年第4期)
は、マルクスのカウディナ山道を通らない道に関する論述は、ロシアの農村共同体に関して提出されたものであって、それを東方の遅れた国家とか経済文化未発達の国家全体へと拡大することは、誤りだと指摘。
また、許全興「請不要誤解馬克思--関於"跨越資本主義 夫丁峡谷"的辨析」(『理論前沿』1996年第18期)も、マルクスにとってロシアは1861年以降、資本主義の道に入りこんでいたのであって、ロシア社会が資本主義を跳び越えるなどという問題はすでに存在していなかったと述べる。

 さらに趙家祥、段忠橋は、後に社会構成体論をめぐって厳しい論争を繰り返すが、この時点では、ともにカウディナ山道の議論に否定的である。

趙家祥「対"跨越資本主義 夫丁峡谷"問題的商 意見」(『北京大学学報』1988年第1期)は、
マルクスの言わんとしていたところは、ロシア革命を発端とした西欧のプロレタリア革命の勝利のもとにおいて、西欧資本主義の積極的な成果をもってロシアの社会主義的改造を助け、ロシアの農村共同体の共有制が共産主義の出発点となることであったと指摘。

段忠橋「対我国跨越"夫丁峡谷"問題的再思考」(『馬克思主義研究』1996年第1期)
は、ロシアの農村共同体が本当に資本主義(カウディナ山道)を跳び越えるとしたら、それはカウディナ山道を通り抜けた西欧革命のもとでのみ、それが可能であるとマルクスが考えていたと述べる。
つまり両者ともに、カウディナ山道を冠した資本主義跳び越え論が成立しないことを指摘している。
 孫来斌(2004)にはその名があがっていないが、
呉銘「跨越"夫丁峡谷"設想与東方社会主義併不聯繋」(『中国人民大学学報』1996年第1期)
も、趙家祥や段忠橋と同じように、カウディナ山道をめぐる跳び越え論を厳しく批判している。呉銘は「ザスーリチの手紙への回答」と同時期に執筆された『共産党宣言』ロシア語序文第二版(エンゲルスと共著)において、ロシアの農民共同体は、「もし、ロシア革命が西欧プロレタリアート革命にたいする合図となって、両者がたがいに補いあうなら、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点となることができる」(『全集』第19巻)と述べられている点に着目し、この両者互いに補うという意味が、高度に緊密な関連をもった世界における革命の同時性を述べたものであり、主導的な働きをなすのは、遅れた国家ではなく、資本主義の先進的な成果を継承した西欧プロレタリアートであり、遅れた国家、民族はそれに依拠しなければ、飛び越え自体ありえないとマルクスやエンゲルスが考えていたことを明らかにしている。
実は、この『宣言』ロシア語序文第二版の一節は張奎良、孫承叔らの論客たちも引用しているが、充分な配慮が払われているとは言い難い。

この辺は、すでに淡路憲治『マルクスの後進国革命像』(未来社,1971)に親しんでいる我々にとっては十分に説得的である。
このようなマルクスの構想からみれば、ロシア革命や中国革命は大きく離れたものである以上、カウディナ山道資本主義跳び越え論がいう、両国の革命はマルクス晩年の構想、東方社会理論にもとづくものとはいえないのである。

呉銘は、ロシアや中国などの東方の社会主義は、20世紀の社会主義の道の重大な変化、転換から生じたもので、いかなる既成の理論や原則の体現でもなかったとしている。

朝鮮学校の無償化問題・日本共産党の見解

2010年10月3日(日)「しんぶん赤旗
日本共産党 知りたい聞きたい
朝鮮学校の無償化除外は?

〈問い〉
朝鮮学校の無償化除外について日本共産党はどう考えていますか? (堺市の女性)

〈答え〉
この春から、国は公立高校授業料を不徴収とし、私立高校生に公立授業料と同額の高校就学支援金を支給するようになりました(「高校無償化法」)。この措置は多くの外国人学校にも適用されていますが、朝鮮学校は適用除外となっています。日本共産党は、この適用除外に反対であり、他の外国人学校と同じように扱うよう主張しています。
 国際人権規約子どもの権利条約に基づき、子どもの教育についてはその国籍に関係なく、その子どもが実際に住んでいる国の政府が責任をもつことになっています。国の「高校無償化法」でも、日本の高校教育に準じた外国人学校に「無償化」措置をすることにしています。
 朝鮮学校での教育は、教科書はハングルで書かれていますが、日本の学習指導要領にそったものが多く、日本の高校教育に準じたものといえます。このことは、日本の大半の大学が朝鮮学校卒業者を高校卒業と同程度の学力があるとして受験を認めていることからも裏付けられます。
 こうした朝鮮学校を「高校無償化」の適用除外とすることは道理がありません。日本弁護士連合会が批判の会長声明をだす、国連の人種差別撤廃委員会が日本政府に対して事態を懸念する「最終所見」をだすなど国内外に批判が広がっています。
 一部に朝鮮史の授業等が偏向しているから問題だという意見がありますが、だから高校に準じると認めないというのは道理がありません。子どもの権利条約は教育の目的として「児童の父母、児童の文化的同一性、言語及び価値観、児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文化に対する尊重を育成すること」を明記しています。
 さらに、拉致問題を理由に適用除外を支持する意見もあります。しかし、北朝鮮政府が拉致に関与しているからといって、それと在日朝鮮人などの子どもたちの学ぶ権利とはかかわりがありません。
 朝鮮学校が今日のような形で存在している背景には、戦前の日本による朝鮮侵略と植民地支配の歴史があります。それだけに、日本政府には国際条約や人権の精神にそった誠実な対応が求められています。
(2010・10・3)

金賢姫の手紙 (6)

北朝鮮の謝罪を受けられないまま、米国が北朝鮮に対してテロ支援国のくびきをはずしてやったのが、韓国のねつ造疑惑提起者たちに口実を与えることになりました。

この間静かだった「KAL機対策委」(委員長金ビョンサン神父)と「家族会」(会長車オクチョン)はこの機会に米国国務省北朝鮮外務省、韓国外交通商部北朝鮮テロ支援国解除の過程でKAL機事件についてどんな議論がなされたのかを尋ねる質問書を発送する予定とし、また活動をし始めました。

「対策委」の立場は、北朝鮮を「家族会」と同じくKAL機事件の直接的な被害者あるいは関連者と見なしています。

「対策委」は盧武鉉政権の間ずっと、ねつ造説を扇動して国会、検察、国家情報院の前などの場所でデモをしながらも、外勢介入を恐れたのか米国と日本大使館の前では一度もデモをしませんでした。そのような彼らが突然態度を変えました。


彼らが態度を変えた理由は、これから6者会談がなされる過程でひょっとして北朝鮮がKAL機事件を間接的でも認めることになれば、ねつ造疑惑闘争を展開した彼らの努力が水の泡になり、過去に権力の中で享受した自分たちの存在感まで喪失すると思って不安がっているためのようです。

私は、米国国務省北朝鮮外務省が彼らの質問書に答えるのかについては非常に懐疑的です。

IAEAの北の核不能化作業はある線までなされるかも知りませんが、今後北朝鮮が米国との修交を前提として米国から核保有国として認められるならば、その時、親北反米指向のねつ造疑惑提起者は果たして反米を叫びながら北朝鮮を変節者と非難できましょうか。

彼らの背後の国家情報院は、今回の米国の北朝鮮テロ支援国の解除措置でKAL機事件ねつ造疑惑と関連した一切の事態を遠ざけながら自分たちの誤りを極力否認するでしょう。私はテロ支援国解除とは別個の問題として国家情報院に対して過去の責任を必ず問いたいのです。

  • 結び

私は最近、過去の政権で出版された韓国近現代史教科書に「1987年大統領選挙直前にあったKAL機爆発事件は韓国、北朝鮮の政府間の関係を悪化させる契機として作用した」と記述されていることを知ることになりました。

ところで、ここでは「北朝鮮によるテロ」という事実とこの事件で北朝鮮が米国から「テロ支援国」として指定される結果を招いたという事実など国民が必ず知らなければならない事実が省略されていました。

高校歴史教科書を通じても過去の政権が親北性向の歴史意識を持った政権であることが如実に示されました。だから、過去の政権がKAL機事件に対してねつ造疑惑を提起し、過去史委員会で再調査する騒動を起こしたことはそれほど驚くことではありませんでした。

私はKAL機事件に関する偏向した歴史解釈を修正しなければなければならないと考えます。

私は過去政権において発生したKAL機事件関連ねつ造陰謀と過去史委の再調査活動は一言で「金賢姫と安全企画部殺し」公演であったと言いたいのです。

彼らには、北朝鮮の犯行を暴露して安保講演までした金賢姫と、自分たち民主化勢力を弾圧して公安政治へ推し進めた安全企画部が粛清の対象としてみなされたようです。私は、彼らの政権が解放区になった国家情報院にその作業をさせたということに驚きに禁じ得ませんでした。

北朝鮮が企画したKAL機爆破工作は私が逮捕されて事件の全貌が明らかになった反面、国家情報院のKAL機事件陰謀工作はジキル博士とハイド同様に巧妙な両面戦術を繰り広げて今まで世に暴露されず無事に持ちこたえてきたようです。

しかし、正しくないことはいつか世に明らかになると考えます。私は検察と司法府に国家情報院の該当する違法事実を知らせましたが、特別な効果がなかったです。いまや世に知らせる時になったようです。

私は過去、私の犯行事実を国民に一つ一つ自白しました。これによって北朝鮮の家族がばらばらのされたし、私は生死さえ分からない家族を考えてその悲しみに耐えて生きてきました。

このような私の悲劇を誰よりもよく知っている国家情報院は、懺悔して静かに生きている私を事件発生16年ぶりに追い出しました。それも永らく同じ釜の飯を一緒に食べた職員らによってです。本当に人間的な悲哀を感じます。私はKAL機事件で対外情報調査部が解体されたように、国家情報院もそれ位の代価を払わなければならないと考えます。

それで私は指揮部に手紙で丁寧に呼び掛けをしました。本当に私がにせ物で事件がねつ造された疑惑があるならば、捜査権を持った国家情報院は私を緊急逮捕して再尋問して「金賢姫北朝鮮工作員ではなく、安全企画部工作員だった」と再捜査結果発表をしなければならなかったのです。そして、事実がそうではないならば、国家情報院は今からでもねつ造陰謀を中断して謝罪をしなければならないと言いました。

国家情報院は私を何の力がない女だと殺害脅迫までして、ずっと困らせてきました。
そして、彼らは退職した先任者の背中に向かって銃を撃つ卑怯さを見せました。

国家情報院が「安全企画部殺し」公演をしたこと、これが下剋上でなくて何でしょうか。それでも彼らはしらばくれて平気でいます。本当に国家情報院は国家安保の責任を負ったエリート集団ということは正しいですか。私は国家情報院が法を離れて、すでに組織の道徳律まで喪失したと考えます。いまだに彼らの不正を自ら勇敢に告白する者が現れていません。

そして、追放の地で私を身辺保護よりは監視により近い保安管理をしている警察当局も、組織倫理の喪失が国家情報院と違うところがなかったです。組織の法と道徳的価値を投げ捨てた二つの公安当局は、私を危険な「観察対象者」として監視しています。私が見るには、彼らが私よりもっと危険に見えます。

これから私は、批判を加えた国家機関と公営機関、市民宗教団体らと対抗して闘争しなければならない運命に処されそうです。親北性向の政権が退いて実用主義政権ができましたが、私一人で彼らに対処するにはあまりにも力不足です。忍耐しながら生きてきた5年が無駄にならないことを望むだけです。

私がここで試練の毎日を送る間、疑惑提起者は私の両親も北朝鮮の人ではないと主張しますが、私は夢の中でだけでなつかしい両親と弟、妹らに会います。

北朝鮮当局は日本語先生の李恩恵が交通事故で死亡したといいますが、彼女が招待所の窓の外をながめて、幼い二人の子供に会いたくて泣き、拉致された自身の境遇を嘆いた姿をしばしば思い出します。

何年か前に日本のTVで放映された、すでに青年になった李恩恵の息子の姿を見ました。彼の大きい目がお母さんの姿をたくさんとどめています。彼は私に会って自分のお母さん話を聞きたいといったが、そうしてあげることができない私の現実が切なかったです。

私は生死が分からない北側の家族と生き別れして、こちらで追放生活をしているけれども、私の二人の子供を近くで見て過ごすことができるということに自らを慰めながら生きております。

それでは、お体を大切に、さようなら。

2008年10月下旬

金賢姫

www.chogabje.com 2008-11-24 23:30

金賢姫の手紙 (5)

2006年12月初め、宋基寅委員長はKBSラジオ番組で「遺族らが私たちに国家情報院の過去史委の調査結果が不十分だといって申請をしたのだ、同行命令権はあるが、それだけで金賢姫を調査できないならば、強制的に調査できる権限が必要で、国会に強制拘留法案を提案したが、まだ法司委員会に上程されていない」と話しました。

2007年12月初め、安炳旭新任委員長は「真実を明らかにしなければならないが、あるものは適当に伏せておかなければならない」としながらKAL機事件再調査には一切関与しないと話しました。彼は国家情報院「過去事委」委員在職時期「KAL機事件は安全企画部のねつ造でない」という中間調査結果を発表して市民団体から猛烈な批判と侮辱を浴びた事実があります。

最近、国家情報院指揮部へ私の手紙を伝達する過程で担当職員から「真実和解委で私を調査しようとしている。 所在地を知らせてくれという要求をなんとか押し返している」という話を何回も聞きました。

国家情報院は私に対して国家情報院「過去事委」の調査が失敗に終わるや、今回は「真実和解委」を通じて、最後まで調査されるようにして私を窮地に追いやり続けようとしているようです。政権が交代したのに国家情報院が過去の政権で犯した洗い流すことができない過ちについて委員会を通じて免罪させようとする術策とも見えます。
そして、私を調査させ、公開された席に出させて、いまだに健在であるあちらの勢力が私に対して身辺威嚇をしようとする意図が裏にあるのではないかと思えます。

KAL機事件が国家機関の「真実和解委」に申請され、調査がなされ、その結果が発表される前までは、KAL機「ねつ造疑惑事件」は終わらないでずっとつづき、私は国情院と依然として緊張関係を維持することになるのです。

  • 捜査局長の訪問

私が国家情報院と敵対的関係を数年の間、維持してきているなかで、金萬福院長の書信を二度拒絶するや、2007年2月下旬頃、国家情報院李某捜査局長と職員らが私を訪問しました。

捜査局長は私の代わりに私の夫に「『発展委』でKAL機事件について終わらせたいと考えている。『発展委』がこの事件を終わらせて『真実和解委』(当時宋基寅委員長)に関連書類を伝達すれば「真実和解委」はその枠の中で調査して発表するだろう。もし、金賢姫が『発展委』の調査に応じなければ『真実和解委』で裁判所から拘留状の発給を受けて、強制連行して調査を強要するだろう。 金賢姫に面談して調査したいのだが、応じてくれ」と訪問目的を話しました。

しかし、私の夫は彼の要求を拒絶して「私たちは国家情報院のために自分の家から追い出され苦労して生活してきているではないか。『金賢姫はにせ物』という本を書いていても調査官として採用された申ドンジンと、大学で講演して歩き回る徐ヒョンピルを見て見ぬふりをして捜査しない理由がいったい何ですか。そして「家族会」会長車オクチョンと「対策委」執行委員長申ソングク神父は「金賢姫は安全企画部工作員だ」と全国で言いふらしているのになぜ捜査しないのですか」と抗弁しました。

私の夫が引き続き「今、北朝鮮の核のために6者会談が開かれてある程度合意が導き出され成果が表面化して、北米関係改善のために米国がテロ支援国解除意志を最近表明していると聞いています。
それなのに、韓国ではKAL機事件は自作劇だと叫びまくっていれば、米国が黙っていると思いますか。 北朝鮮もテロ支援国解除を要請しているというのに、韓国で足を引っぱるおかしな主張を扇動していれば北朝鮮がどのように韓国を考えますか。 また、政府は南北首脳会談を推進しようとしていると思います。 KAL機事件で被害をこうむった韓国は、被害を与えた北朝鮮に謝罪なしに与えるのみになっています。南北首脳会談時に北朝鮮に正式にこの問題に対する謝罪を要請しなければなりません。そうしてこそ、南北相互関係における会談の真実性が生まれるのです。 この機会に国家情報院が自らの誤りから抜け出そうとするなら、北朝鮮に謝罪させてください」と首脳会談関連して話し、捜査局長にして逆に要請をしました。

その次に私の夫が、「今、金賢姫は韓国、北朝鮮両側から追いつめられているけれど、それよりも日本の接近がさらに深刻になっています。日本は、拉致問題で6者会談に消極的であり、金賢姫をどのようにしてでも探し出そうと血眼になっています。日本も、李恩恵の息子との出会いを通じて自らの立場を高めようと努力しており、それが南北関係に一定の作用や影響を及ぼすだろうと考えています」と事件と関連する国外の問題を話すと捜査局長は納得するかのようでした。
また過去事委員会に関して、私の夫が「YS政府の時も『歴史を立て直し』をするとやかましかったが、今は各種の過去の歴史委員会を作って、歴史立て直しをしています。彼らは「歴史というのは権力によって書くのだ」と信じているのでしょうが、政権が交代すればその事件に対する歴史批判がまたくり返すということを知らなければなりません。
今、過去事委員会は「真実」、「和解」、「発展」という言葉を前面に出して歴史批判をしています。そして、国家情報院がその委員会の代理として私たちに伝達者役割をする姿が忍びないだけです。
金賢姫に対して過去に司法府が3審を行ったものを、今回、「発展委」が4審を行い、「和解委」が5審をする行為、これが人民裁判ではなくて何でしょうか。金賢姫はいつまで裁判を受けなければならないのですか」と強い語調で局長に話すや、彼は慌てながら「人民裁判とまで言うことができようか。
違う。私も組織員に過ぎない。それでは呉忠一委員長に聞いたことを報告する」と話してあわてて帰ったという事実があります。
その年10月初め、南北首脳会談が平壌で開かれましたが、韓国当局は北朝鮮にKAL機事件について一切議論を提起できませんでした。

  • 国家情報院の二重戦術

私は国家情報院が背後で二重基準を持って、表面では情報機関本来の任務を遂行するかのように行動しつつ、実際、内実では表面とは違った行動をするのを見させられました。

一番目に、国家情報院の二重戦術は一貫性が欠如した行動によって容易に発見できました。李相淵前部長は2004年6月初め、前職安全企画部長らと共に高泳●院長に会った席で、KAL機問題に対して合法的手順を踏んで再調査要請がくれば積極的に対応する用意もあるという高泳●院長の確固たる立場を聞いて、当時の捜査責任者として心づよかったとおっしゃいました。

そして高泳●院長はその年7月初め、国会情報委に出席してKAL機事件に関する再調査論議について「大法院判決が真実だと信じており、これは確固たる立場だ。KAL機事件は疑問死調査委らを通じて調査する事件に該当しない」と再度確認しました。しかし彼の話は守られなかったです。

その年8月中旬、高泳●院長は「参与連帯」をはじめ「人権運動のサランバン(客間)」「民衆連帯」「民家協」「民主弁護士会」など7つの人権・市民団体の関連者らと市内某ホテルで極秘裏に会合を持って「国家情報院過去事発展委」の構成と運営に関して意見を打診しKAL機事件等の関連資料を渡しました。(●は 老冠に 句)
このように彼は組織のトップとして外と内が違う二重的な言葉と態度を見せました。
彼は国家情報院長に就任する前の在野時代に民主弁護士会に所属しており「KAL機事件対策委員会」で活動した事実があると聞きました。

彼は金賢姫事件のねつ造は有り得ないことだと言いながらも、「国家情報院の過去事委」が7大優先調査対象を選定することを放置しておいた理由を説明するべきでした。
「国家情報院の過去事委」は彼が招集し構成した組織ではなかったのですか。

そして、朴丁三第1次長は日刊紙「グッドディ」新聞発行人として在職していたとき、2001年9月創刊号に私が乗っていた車両を襲撃した写真を1面で大きく報じた事実があります。この事件があった後、まもなくKAL機事件ねつ造疑惑の提起が放送と言論を通じて、また始まったのです。

結局、盧武鉉政権は国家情報院長と次長などの指揮部にKAL機事件と関連した者を政権樹立時から任命して、KAL機事件を政府政策の一環として使おうとしたようです。情報機関の運営権を持つ彼らは任命された初期からKAL機事件と関連して、実質的な情報機関運営の方向を深く議論したと考えられます。


二番目に、捜査情報資料の提供の側面で見てみると、放送3社が特集でKAL機事件ねつ造疑惑を提起し、私、金賢姫と安全企画部を非難する番組を製作しているのにもかかわらず、国家情報院が関連資料を提供し支援したという事実から指揮部の二重意志が現れています。

国家情報院はMBCとSBS製作陣には写真、映像、資料、証拠物など基本捜査資料を提供したが、KBS製作陣には金勝一の身元関連資料、旅券に押されているスタンプが偽造かどうかの資料など新しい捜査情報資料を提供して番組が2部作で放映できるようにしてやりました。

ところで、2004年3月下旬頃、日本の日本テレビ系列「ニュースプラス1」がKAL機事件と関連して、「金賢姫17年間の真実」という題名の特集を二日間放映しましたが、この番組では担当捜査官が明らかにする極秘捜査資料として拉致された日本語先生李恩恵とともに生活した招待所の周辺環境や、招待所内部構造など私が作成した詳細な図表を公開しました。

国家情報院が国内放送会社に提供した捜査情報資料とは情報の水準がずいぶん違うことが分かりました。もし国家情報院がそれらを国内放送会社に提供して放映させたならばKAL機事件ねつ造疑惑説はすぐに力を失ったでしょう。

国内放送各社は李恩恵関連の疑惑はそろって取り上げずに事件を放映しましたが、日本の放送会社は李恩恵を中心に国家情報院から高級情報を提供され放映しました。
これが国家情報院の資料提供に対する二重戦術だったと考えます。

三つ目に、国家情報院が小説家と出版人を相手に起こした名誉毀損訴訟事件です。
国家情報院はKAL機事件ねつ造疑惑の世論を作る広報次元で偽りの訴訟事件を起こしました。 国家情報院は初めから名誉毀損とは距離が遠いと見ていたと思います。小説よりもっと大きい社会的波紋を起こしたKBSなど放送3社に対しては告訴をしませんでした。企画、支援をした国家情報院としては放送会社らを告訴することはできなかったのだと思います。

そして、国家情報院は小説「背後」を書いた徐ヒョンピルは告訴して、本の表紙に「安全企画部捜査発表は対国民詐欺だ」としてノンフィクション「KAL858、崩れた捜査発表」を書いた申ドンジンは告訴するどころか、「国家情報院の過去事委」の調査官として採用しました。これもまた国家情報院の不公平な二重処置ではないのですか。

四つ目は、2006年4月初め、日本の東京シティホテルで「国家情報院の過去事委」委員の李昌鎬、調査官申ドンジン、国家情報院職員と見なされる通訳などが朝総連系とも懇意にしている作家の野田峯雄と接触した事実があるそうです。国家情報院が、その本の販売禁止仮処分申請をし、国益に反するとして入国禁止措置を下した者を訪ねて接触し、事件関連の話を交わしたという事実は、情報機関に所属する委員として非常に危険な二重行動に違いありません。

偽りの名誉毀損訴訟を起こしながら、不公正放送をする放送3社を支援し、入国禁止された日本人作家と接触するというこのような国家情報院の二重行動と戦術は彼ら自身が「背後」にいるという事実を立証しているのです。

金賢姫の手紙 (4)

2006年12月初め、宋基寅委員長はKBSラジオ番組で「遺族らが私たちに国家情報院の過去史委の調査結果が不十分だといって申請をしたのだ、同行命令権はあるが、それだけで金賢姫を調査できないならば、強制的に調査できる権限が必要で、国会に強制拘留法案を提案したが、まだ法司委員会に上程されていない」と話しました。

2007年12月初め、安炳旭新任委員長は「真実を明らかにしなければならないが、あるものは適当に伏せておかなければならない」としながらKAL機事件再調査には一切関与しないと話しました。彼は国家情報院「過去事委」委員在職時期「KAL機事件は安全企画部のねつ造でない」という中間調査結果を発表して市民団体から猛烈な批判と侮辱を浴びた事実があります。

最近、国家情報院指揮部へ私の手紙を伝達する過程で担当職員から「真実和解委で私を調査しようとしている。 所在地を知らせてくれという要求をなんとか押し返している」という話を何回も聞きました。

国家情報院は私に対して国家情報院「過去事委」の調査が失敗に終わるや、今回は「真実和解委」を通じて、最後まで調査されるようにして私を窮地に追いやり続けようとしているようです。政権が交代したのに国家情報院が過去の政権で犯した洗い流すことができない過ちについて委員会を通じて免罪させようとする術策とも見えます。
そして、私を調査させ、公開された席に出させて、いまだに健在であるあちらの勢力が私に対して身辺威嚇をしようとする意図が裏にあるのではないかと思えます。

KAL機事件が国家機関の「真実和解委」に申請され、調査がなされ、その結果が発表される前までは、KAL機「ねつ造疑惑事件」は終わらないでずっとつづき、私は国情院と依然として緊張関係を維持することになるのです。

  • 捜査局長の訪問

私が国家情報院と敵対的関係を数年の間、維持してきているなかで、金萬福院長の書信を二度拒絶するや、2007年2月下旬頃、国家情報院李某捜査局長と職員らが私を訪問しました。

捜査局長は私の代わりに私の夫に「『発展委』でKAL機事件について終わらせたいと考えている。『発展委』がこの事件を終わらせて『真実和解委』(当時宋基寅委員長)に関連書類を伝達すれば「真実和解委」はその枠の中で調査して発表するだろう。もし、金賢姫が『発展委』の調査に応じなければ『真実和解委』で裁判所から拘留状の発給を受けて、強制連行して調査を強要するだろう。 金賢姫に面談して調査したいのだが、応じてくれ」と訪問目的を話しました。

しかし、私の夫は彼の要求を拒絶して「私たちは国家情報院のために自分の家から追い出され苦労して生活してきているではないか。『金賢姫はにせ物』という本を書いていても調査官として採用された申ドンジンと、大学で講演して歩き回る徐ヒョンピルを見て見ぬふりをして捜査しない理由がいったい何ですか。そして「家族会」会長車オクチョンと「対策委」執行委員長申ソングク神父は「金賢姫は安全企画部工作員だ」と全国で言いふらしているのになぜ捜査しないのですか」と抗弁しました。

私の夫が引き続き「今、北朝鮮の核のために6者会談が開かれてある程度合意が導き出され成果が表面化して、北米関係改善のために米国がテロ支援国解除意志を最近表明していると聞いています。
それなのに、韓国ではKAL機事件は自作劇だと叫びまくっていれば、米国が黙っていると思いますか。 北朝鮮もテロ支援国解除を要請しているというのに、韓国で足を引っぱるおかしな主張を扇動していれば北朝鮮がどのように韓国を考えますか。 また、政府は南北首脳会談を推進しようとしていると思います。 KAL機事件で被害をこうむった韓国は、被害を与えた北朝鮮に謝罪なしに与えるのみになっています。南北首脳会談時に北朝鮮に正式にこの問題に対する謝罪を要請しなければなりません。そうしてこそ、南北相互関係における会談の真実性が生まれるのです。 この機会に国家情報院が自らの誤りから抜け出そうとするなら、北朝鮮に謝罪させてください」と首脳会談関連して話し、捜査局長にして逆に要請をしました。

その次に私の夫が、「今、金賢姫は韓国、北朝鮮両側から追いつめられているけれど、それよりも日本の接近がさらに深刻になっています。日本は、拉致問題で6者会談に消極的であり、金賢姫をどのようにしてでも探し出そうと血眼になっています。日本も、李恩恵の息子との出会いを通じて自らの立場を高めようと努力しており、それが南北関係に一定の作用や影響を及ぼすだろうと考えています」と事件と関連する国外の問題を話すと捜査局長は納得するかのようでした。
また過去事委員会に関して、私の夫が「YS政府の時も『歴史を立て直し』をするとやかましかったが、今は各種の過去の歴史委員会を作って、歴史立て直しをしています。彼らは「歴史というのは権力によって書くのだ」と信じているのでしょうが、政権が交代すればその事件に対する歴史批判がまたくり返すということを知らなければなりません。
今、過去事委員会は「真実」、「和解」、「発展」という言葉を前面に出して歴史批判をしています。そして、国家情報院がその委員会の代理として私たちに伝達者役割をする姿が忍びないだけです。
金賢姫に対して過去に司法府が3審を行ったものを、今回、「発展委」が4審を行い、「和解委」が5審をする行為、これが人民裁判ではなくて何でしょうか。金賢姫はいつまで裁判を受けなければならないのですか」と強い語調で局長に話すや、彼は慌てながら「人民裁判とまで言うことができようか。
違う。私も組織員に過ぎない。それでは呉忠一委員長に聞いたことを報告する」と話してあわてて帰ったという事実があります。
その年10月初め、南北首脳会談が平壌で開かれましたが、韓国当局は北朝鮮にKAL機事件について一切議論を提起できませんでした。

  • 国家情報院の二重戦術

私は国家情報院が背後で二重基準を持って、表面では情報機関本来の任務を遂行するかのように行動しつつ、実際、内実では表面とは違った行動をするのを見させられました。

一番目に、国家情報院の二重戦術は一貫性が欠如した行動によって容易に発見できました。李相淵前部長は2004年6月初め、前職安全企画部長らと共に高泳●院長に会った席で、KAL機問題に対して合法的手順を踏んで再調査要請がくれば積極的に対応する用意もあるという高泳●院長の確固たる立場を聞いて、当時の捜査責任者として心づよかったとおっしゃいました。

そして高泳●院長はその年7月初め、国会情報委に出席してKAL機事件に関する再調査論議について「大法院判決が真実だと信じており、これは確固たる立場だ。KAL機事件は疑問死調査委らを通じて調査する事件に該当しない」と再度確認しました。しかし彼の話は守られなかったです。

その年8月中旬、高泳●院長は「参与連帯」をはじめ「人権運動のサランバン(客間)」「民衆連帯」「民家協」「民主弁護士会」など7つの人権・市民団体の関連者らと市内某ホテルで極秘裏に会合を持って「国家情報院過去事発展委」の構成と運営に関して意見を打診しKAL機事件等の関連資料を渡しました。(●は 老冠に 句)
このように彼は組織のトップとして外と内が違う二重的な言葉と態度を見せました。
彼は国家情報院長に就任する前の在野時代に民主弁護士会に所属しており「KAL機事件対策委員会」で活動した事実があると聞きました。

彼は金賢姫事件のねつ造は有り得ないことだと言いながらも、「国家情報院の過去事委」が7大優先調査対象を選定することを放置しておいた理由を説明するべきでした。
「国家情報院の過去事委」は彼が招集し構成した組織ではなかったのですか。

そして、朴丁三第1次長は日刊紙「グッドディ」新聞発行人として在職していたとき、2001年9月創刊号に私が乗っていた車両を襲撃した写真を1面で大きく報じた事実があります。この事件があった後、まもなくKAL機事件ねつ造疑惑の提起が放送と言論を通じて、また始まったのです。

結局、盧武鉉政権は国家情報院長と次長などの指揮部にKAL機事件と関連した者を政権樹立時から任命して、KAL機事件を政府政策の一環として使おうとしたようです。情報機関の運営権を持つ彼らは任命された初期からKAL機事件と関連して、実質的な情報機関運営の方向を深く議論したと考えられます。


二番目に、捜査情報資料の提供の側面で見てみると、放送3社が特集でKAL機事件ねつ造疑惑を提起し、私、金賢姫と安全企画部を非難する番組を製作しているのにもかかわらず、国家情報院が関連資料を提供し支援したという事実から指揮部の二重意志が現れています。

国家情報院はMBCとSBS製作陣には写真、映像、資料、証拠物など基本捜査資料を提供したが、KBS製作陣には金勝一の身元関連資料、旅券に押されているスタンプが偽造かどうかの資料など新しい捜査情報資料を提供して番組が2部作で放映できるようにしてやりました。

ところで、2004年3月下旬頃、日本の日本テレビ系列「ニュースプラス1」がKAL機事件と関連して、「金賢姫17年間の真実」という題名の特集を二日間放映しましたが、この番組では担当捜査官が明らかにする極秘捜査資料として拉致された日本語先生李恩恵とともに生活した招待所の周辺環境や、招待所内部構造など私が作成した詳細な図表を公開しました。

国家情報院が国内放送会社に提供した捜査情報資料とは情報の水準がずいぶん違うことが分かりました。もし国家情報院がそれらを国内放送会社に提供して放映させたならばKAL機事件ねつ造疑惑説はすぐに力を失ったでしょう。

国内放送各社は李恩恵関連の疑惑はそろって取り上げずに事件を放映しましたが、日本の放送会社は李恩恵を中心に国家情報院から高級情報を提供され放映しました。
これが国家情報院の資料提供に対する二重戦術だったと考えます。

三つ目に、国家情報院が小説家と出版人を相手に起こした名誉毀損訴訟事件です。
国家情報院はKAL機事件ねつ造疑惑の世論を作る広報次元で偽りの訴訟事件を起こしました。 国家情報院は初めから名誉毀損とは距離が遠いと見ていたと思います。小説よりもっと大きい社会的波紋を起こしたKBSなど放送3社に対しては告訴をしませんでした。企画、支援をした国家情報院としては放送会社らを告訴することはできなかったのだと思います。

そして、国家情報院は小説「背後」を書いた徐ヒョンピルは告訴して、本の表紙に「安全企画部捜査発表は対国民詐欺だ」としてノンフィクション「KAL858、崩れた捜査発表」を書いた申ドンジンは告訴するどころか、「国家情報院の過去事委」の調査官として採用しました。これもまた国家情報院の不公平な二重処置ではないのですか。

四つ目は、2006年4月初め、日本の東京シティホテルで「国家情報院の過去事委」委員の李昌鎬、調査官申ドンジン、国家情報院職員と見なされる通訳などが朝総連系とも懇意にしている作家の野田峯雄と接触した事実があるそうです。国家情報院が、その本の販売禁止仮処分申請をし、国益に反するとして入国禁止措置を下した者を訪ねて接触し、事件関連の話を交わしたという事実は、情報機関に所属する委員として非常に危険な二重行動に違いありません。

偽りの名誉毀損訴訟を起こしながら、不公正放送をする放送3社を支援し、入国禁止された日本人作家と接触するというこのような国家情報院の二重行動と戦術は彼ら自身が「背後」にいるという事実を立証しているのです。

金賢姫の手紙 (3)

その当時、私はその場に明確にいました。花を渡す少女として出席したという私の陳述が先にあり、それを土台にして2次的に捜査官らが写真を探してきました。 その後、日本で私の陳述を後押しする写真が出てきて報道されましたが、彼らはその写真を絶対に写しませんでした。むしろ「鄭ヒソン」という北朝鮮女性が出てくる朝鮮総連の撮影資料を詳細に放映しました。

五つ目、放送各社は事件疑惑提起をしつつ、事件関連国の日本、米国、北朝鮮などに対して外交的問題が発生する素地がある事項は取材、放送しなかったのです。

彼らは私が招待所で日本語教育を受ける時、共に生活した「李恩恵」に対してはそろって口を閉じて無視しました。私が述べた李恩恵先生が「田口八重子」と同じ人物であることを日本警視庁が明らかにしたので、彼らが同じ人物でないと疑惑を提起する番組にしたならば外交的問題で挑戦受ける可能性が大きいと思われます。

それから、彼らは捜査発表後、直ちに北朝鮮をテロ支援国として指定した米国に対して非難したり問題を提起する番組としなかったのです。彼らは米国と日本の介入を恐れたと思われます。

また、放送各社はKAL機事件が北朝鮮の仕業にもかかわらず、工作員である私に対して否定的に対応しながら、反対に北朝鮮当局には刺激をしないように用心深く対応するという二重的態度を堅持しました。 はなはだしきは、KBS柳ジヨル担当プロディーサーは「金賢姫平壌を出発しなかった」とまで主張しました。彼は私の偽造旅券を偽造していました。これを通じて、彼らの放送意図をある程度知ることが出来ました。

最後の問題点は放送各社がKAL機事件ねつ造疑惑を提起するにあたり事実と違うとだけ主張したのみで、実体的真実には全く接近しなかったということです。

彼らは彼らの番組の題名とかけ離れた話をしました。彼らは「金賢姫は誰か」と熱心に海外を戦々恐々としながら私の行程を追跡、取材しながらも、何の結論を下すことができませんでした。彼らは私を外界人の水準にしてしまいました。 私はその点がミステリーでした。そうすると、KBSは2005年新年特集で解放60年「10大ミステリー事件」項目でKAL機爆破事件が3位を占めたと自ら発表するに至りました。

  • 「前衛」組織と嘆願書提出

MBCがKAL機事件ねつ造疑惑を放送して四日後の2003年11月22日頃、国家情報院捜査局長など5人は小説「背後」(KAL機事件ねつ造説を主張し、各社のテレビ番組に強い影響を与えた本・訳註)の著者、徐ヒョンピルと「蒼海」出版の全ヒョンベを相手に出版物による名誉毀損容疑で民・刑事告訴をしました。

その年12月上旬頃にはマスコミで、私が身辺露出を敬遠して家族と共に突然潜伏したという記事が報道されました。

その年12月中旬頃、このうわさをのがさないように「KAL機家族会(会長・車オクチョン)」と「KAL機事件真相究明市民対策委員会(委員長・金ビョンサン神父)」が「最近突然消えた元北朝鮮工作員金賢姫氏を29万ウォンに懸賞手配する」と言ってデモとともに手配ビラをばらまいてまわりました。

また、これらの団体は全斗煥前大統領の自宅前、ハンナラ党とヨルリンウリ党本部前、国会、検察庁仁川国際空港KAL事務室、国家情報院の前などでデモと記者会見、セミナーなどを行って、事件ねつ造疑惑を提起して様々な場所で活発な行動を展開してきました。

KAL機事件ねつ造説がマスコミなどでかつてないほど広がる中、「背後」(徐ヒョンピル著、蒼海出版)、「KAL858、崩れた捜査発表」(申ドンジン著、蒼海出版)、「私は検証する、金賢姫破壊工作」(野田峯雄著、蒼海出版)などの本がこの時期にあふれ出ました。

この一連の事件は互いに関連がないようにも見えますが、KAL機陰謀説を中心にして様々な形態で展開してきたのです。そして不思議にも上記「対策委」に所属した者たちによって事件が起こされてきました。 訴訟、著作、出版、デモ、記者会見など一連の事件には「対策委」所属の人たちが常に含まれていることが明らかになりました。
彼らはいわゆる国家情報院の「前衛」組織でした。

「KAL機事件家族会」とは会長車オクチョンなど何人かの遺族と申ドンジン(家族会事務局長、作家、国家情報院過去史委員会調査官)などねつ造疑惑提起のために構成された組織で純粋な遺族会とは異なります。「対策委」は国家情報院という国家機関の後光を背負ってKAL機事件の真相を糾明しろと叫びながらも、実際はねつ造疑惑膨らませることを行う色々な団体が集まって結成された政治性向の市民団体です。

上記「対策委」はインターネット・サイトを運営して裁判所に事件関連情報公開請求をし、事件は韓国による自作劇で私はにせ物だと連日猛非難しています。彼らのサイトは非常に危険な水準なのに公安当局は放っておいています。

「KAL858、崩れた捜査発表」を書いた申ドンジンは「KAL家族会」,「対策委」事務局長として働き「国家情報院過去史委員会」調査官として3年間採用され勤務しましたが、この事実が国家情報院と「対策委」の関係を語ってくれているのです。

そして、国家情報院が訴訟請求した名誉毀損事件は互いに連係して成り立っています。 国家情報院が「対策委」の徐ヒョンピルと全ヒョンベを告訴したのは、検察と司法当局をだます行為だったのです。

私は最近(8月初め)検察と司法当局に手紙形式で嘆願書を提出しました。この事件は手続き法上何の瑕疵がないように見えるが、国家情報院が検察と司法当局の権威を失墜させて不当な公権力行使をした事件であるということを伝えさせていただきました。

この訴訟事件で被告人徐ヒョンピル(小説家)と全ヒョンベ(出版人)の他に弁護を引き受けた弁護士・沈載桓も上記「対策委」の委員です。それでこの訴訟事件はあまりにも計画的な事件であることが判明しました。

私の嘆願書提出のためなのか判決裁判が1か月ほど延期になって今年9月上旬、告発された件は無罪とされ国家情報院は敗訴しました。 被告人らに2年の求刑を求めた検察はこれを不服として9月中旬、控訴状を提出しました。 (ソウル中央地方法院2008ノ3194)

判決は「小説内容が真実でない疑惑を……して、内容や表現が捜査結果に反する点があっても、それだけで当時の捜査を担当した職員を誹謗したり名誉を毀損するために本を出したとは見ることはできない」として、被告人らに無罪を宣告しました。

判決文には私の嘆願書内容を参考とした痕跡は見当たりませんでしたが、無罪宣告は司法当局の名誉に傷を付けた事項に対して忍耐するという裁判所の意志表示にも見えました。

一方、私はこの訴訟事件を通じて、KAL機ねつ造説の陰謀が一定程度うわさとしてでも出てくれるように願いましたが、まだ静かなままなのを見ると、私の嘆願書提出の努力はあまり効力がなかったと感じます。私が国家情報院、検察、裁判所などの国家機関に私の真実の心を訴えたのが初めから誤った試みだったのでしょうか。

  • 「国家情報院の過去事件真相究明を通じての発展委員会」

国家情報院の「過去事発展委」(委員長・呉忠一)は最初に2005年2月上旬KAL858機爆破事件、金大中拉致事件など調査対象7件を選定、発表しました。

「発展委」はその時から2007年10月下旬、調査結果を発表して解散する前までの3年間、私に事件の当事者として調査を受けることを十数回も要求してきました。しかし、私は「発展委」の要求をすべて断りました。

私が彼らの調査要求を断った理由は、私が国家情報院と対立している状況で「発展委」に被調査者として出席することになれば国家情報院がその間犯す誤りに対して免罪符を与えることになり、「発展委」で彼らの政治的目的に符合した方向に事実をわい曲させたりまたは強圧的な陳述をしなければならない不幸な事態が発生することを心配したためです。

私は国家情報院が「背後」で自らの正道を超える公権力の乱用行為を決して黙過できませんでした。国家情報院は自身の内部に組織されている「発展委」を利用して、私を引っぱってきて調査する過程で、懐柔と脅迫をくり返したでしょう。実際にそのようなことが起きました。私は国家情報院によるそのような仕打ちを耐え抜くことが非常に苦痛で困難でした。

そして、「発展委」の呉忠一委員長をはじめとして安炳旭教授、韓洪九教授、朴容逸弁護士、李昌鎬教授など民間調査委員ら10人は大部分、情報機関による被害者であり、自分なりの歴史意識を持っている進歩指向の人物らで構成されていて、彼らの調査に応じること自体がKAL機事件の根本が毀損されそうで、調査に同意することはできなかったのです。

一方では、「発展委」がKAL機事件を調査対象として選定した以上、調査結果を発表しなければならないわけですが、私の調査なしで果たしてどのように発表するのか非常に気になりもしました。

歴史を自分の方式で裁断しようとする「発展委」の再調査結果もまた、歴史に残ることになるので、後日彼らも歴史の批判を受けることになるからです。

「発展委」は2006年8月初めKAL機事件調査の中間発表をして、その年の年末に結果を発表する予定だったが、翌年2007年10月初め南北首脳会談を終えて、10月下旬に調査結果を発表して解散しました。ところで、彼らは「金賢姫北朝鮮工作員だ」、「ムジゲ(虹)工作の文書が発見された」という程度の調査結果を発表しました。

彼らは事件当時の安企部指揮部と当事者である私、金賢姫の調査をせずに、結論を下しました。北朝鮮に対する謝罪勧告の一言もなく、そして無力な女一人も調査できない委員会でした。「発展委」の権威はそれにより地に落ちてしまいました。

ところで、呉忠一委員長は、KAL機事件を調査する核心は「金正日はやらなかったということを明らかにすることだ」と語った事実があります。そして、調査委員李昌鎬教授も結果の発表後、「金賢姫北朝鮮工作員だ」ということと「金正日が指示を与えた」ということは別個の事項であり、それは学界で定説になっていると言って、事件の実体を傷つけようとしました。

それなら彼らは、罪のない民間人の生命を奪い取った航空機テロ事件を誰が指示したのか自ら明らかにすべきでした。 そして、金正日を擁護しようとする理由についても説明すべきでした。

放送各社が、私が工作任務を与えられて北朝鮮を出発する前に朗読した「敵の背後に出発するときに誓った誓約文」をねつ造疑惑の基本項目に入れた理由がここにありました。

そして「ムジゲ(虹)工作」文書を公開した国家情報院の行動は本当に異常でした。
インターネット新聞の「統一ニュース」の要請によって、国家情報院が公開することになったとされました。国家情報院は「ムジゲ(虹)工作」文書の存在を知らない「統一ニュース」に文書を提供して公開させたとても親切な情報機関でした。そして、秘密に分類されていなかった工作文書が存在しているという事実が私としては本当に理解できません。

  • 「真実和解委員会」(真実・和解のための過去事整理委員会)」

2006年8月上旬頃、国家情報院「過去事発展委員会」が私を調査できないまま中間調査発表をした後、李昌鎬委員は法的権限がある「真実和解委員会」など色々な経路を通じて圧迫を加えてでも私を調査するといいました。

2006年11月中旬頃、KAL機家族会は「真実和解委」に再調査を申請したし、翌年の2007年7月中旬、「真実和解委」は事件調査の開始を決めました。