カウディナのくびき(2)

カウディナのくびき その二
 夫丁峡谷(カウディナ山道"を冠した論文は膨大な数に上る。さらにそのうえに、カウディナ山道資本主義跳び越え論を中核とした東方社会理論(東方理論、東方社会主義理論、東方社会発展道路)に関する著作を含めると、論文の数は果てしのないものになる。

 さて、上述したように東方社会理論の中核にカウディナ山道資本主義跳び越え論が存在する。東方社会理論という字面から、我々はマルクスのアジア的社会論を想起するであろう。だが、東方社会理論は、アジア的社会論ではない。我々がマルクスのアジア的社会論という場合、アジア的生産様式論を中核としたアジア社会の固有な性格についての議論を指すが、東方社会理論は政治的な意味合いが強く、むしろ東方社会主義論を意味する。つまり、東方社会理論は、東方社会主義理論とか東方社会発展道路というネーミングの方が、議論の実態を正しく伝えている。

 東方社会理論という名称の由来は、マルクスの本来の革命論が西方中心主義に基づくものであったとする考えから来ている。大方の見解をまとめると以下のようになる。
マルクス主義の創始者たちは、ある社会が社会主義に至るためには、必ず資本主義を経なければならないと考えていた。資本主義が実現させた高い生産力、高度に発展した分業を前提として、初めて社会主義への道は切り開かれると考えていた。それゆえ、社会主義への可能性は西欧にのみ存在していた。では、西欧以外の遅れた諸国は、どうすればよいのだろうか。東方の遅れた諸国は、インドや中国のように、資本主義列強=西欧諸国の植民地もしくは半植民地になるしか、道はなかった。西欧列強の搾取や抑圧のもとで、資本主義を経験するほかなかったのである。
 ところが、1870年代初頭のパリ・コミューン敗北や、その後の第一インター解散に象徴されるような、西欧のプロレタリア革命運動の退潮のもと、マルクス主義の創始者たちは、東方へ目を向けていく。とくにロシアの急進的なナロードニキに関心を寄せるようになる。マルクスはロシア語を学びロシアについての理解を深める。
同時期、マルクスは『コヴァレフスキー・ノート』や『モルガン・ノート』に代表されるように、人類学研究もしくは古代史研究を進め、原始的な共同体もしくは農村共同体の概念を発展させていく。
1880年代に入り、ロシアの革命家ザスーリチの手紙に触発され、その回答の下書き・草稿に、ロシアの農村共同体は、幾つかの条件を満たせば、資本主義を経ずして社会主義に到達する、ロシア再生のための拠点となりうる、と述べる。その条件とは、まず、農民を収奪し、農村共同体に寄生することによって成り立っているロシア国家やロシア資本主義を、革命によって一掃することである。ロシアの農村共同体は、西欧の発達した資本主義と同時に存在しているので、そこで創造されたあらゆる成果を、取り込むことができると述べている。この部分は、同時期に書いた、『共産党宣言』ロシア語序文第二版に、「ロシア革命が西欧プロレタリアート革命にたいする合図となって、両者がたがいに補いあうなら」とあることから、革命に成功した西欧プロレタリアートとの提携が前提となっていると考えるべきであろう。

 中国の理論家たちを、心強くさせているのは、マルクスが「ザスーリチの手紙への回答及び下書き」において、次のように述べた部分である。マルクスは『資本論』第一巻において、資本主義制度のもとでの農民の収奪(資本主義草創期の原始的蓄積、すなわち生産者の生産手段からの徹底した分離)の歴史的不可避性について述べたが、それは「明瞭に西ヨーロッパの諸国に限定されて」いるとした点である。つまり、西欧には属さないロシアには、『資本論』で述べた歴史的不可避性は該当しない、ということになる。
ここから、マルクスは晩年、西欧中心史観から脱却して、非ヨーロッパ社会(東方社会)には、西欧とは別の歴史発展コース、より具体的には、社会主義に至る別の道があると考えるようになった、と解する、東方社会理論が成立する。社会主義に至る別のコースとは、西欧の、資本主義を経るコースではなく、資本主義を跳び越えるコースである。
 どうして、ロシアの農村共同体を崩壊の淵(原蓄期における農民の無慈悲な収奪)から救うという議論が、ロシア社会全体の資本主義跳び越え論となるのか、疑問とされるところである。
実際のところ、諸家(東方社会理論支持者もしくはカウディナ山道派)の議論のなかに、納得のいく説明を見出すことはできない。
だが、おそらく、農村共同体の救済のためには、ロシア革命が前提となっていること、また、そのロシア革命が西欧のプロレタリア革命の合図となり、その成功した西欧プロレタリア革命との提携のもと、ロシア農村共同体が社会の新しい支柱となる以上、ロシア革命によって成立する体制は、社会主義もしくはそれに近い性格を持つと考えることは可能であろう。
上記の文脈からして、革命ロシアの政府は、少なくとも、?@西欧プロレタリア革命と連帯可能な政府であり、?A農民の収奪(生産者の生産手段からの分離)を行わない政府でなければならないからである。
だが、この点については、趙家祥「対"跨越資本主義 夫丁峡谷"問題的商 意見」(『北京大学学報』1998年第1期)が、
もし当時ロシアに革命がおこるとしたら、その主導権を握るのは急進的なナロードニキ(人民の意志派)であり、それゆえ、その革命は、到底、社会主義といえるものではなかったことを指摘しているが、そのとおりだと思う。
 前号では、1995年前後のカウディナ山道をめぐる議論を瞥見した。筆者が取り上げた論者たちの多くは、カウディナ山道をめぐる議論に疑問を投げかける人々であった。実は、その多さにやや不思議な感じがしていた。というのも、カウディナ山道を冠した論文および東方社会理論に関する論文は、その後、ますます増えているからである。1990代、2000年代を合わせて、おそらく数百、多分、二百や三百ではとても収まらない数の論文が発表されていると思われる。そうだとすると、1995年前後の状況において、あのように疑問を投げかける理論家たちが多いとすれば、一体どのようにして議論が進んだのだろうか、と。






カウディナのくびき その二
 夫丁峡谷(カウディナ山道"を冠した論文は膨大な数に上る。さらにそのうえに、カウディナ山道資本主義跳び越え論を中核とした東方社会理論(東方理論、東方社会主義理論、東方社会発展道路)に関する著作を含めると、論文の数は果てしのないものになる。

 さて、上述したように東方社会理論の中核にカウディナ山道資本主義跳び越え論が存在する。東方社会理論という字面から、我々はマルクスのアジア的社会論を想起するであろう。だが、東方社会理論は、アジア的社会論ではない。我々がマルクスのアジア的社会論という場合、アジア的生産様式論を中核としたアジア社会の固有な性格についての議論を指すが、東方社会理論は政治的な意味合いが強く、むしろ東方社会主義論を意味する。つまり、東方社会理論は、東方社会主義理論とか東方社会発展道路というネーミングの方が、議論の実態を正しく伝えている。

 東方社会理論という名称の由来は、マルクスの本来の革命論が西方中心主義に基づくものであったとする考えから来ている。大方の見解をまとめると以下のようになる。
マルクス主義の創始者たちは、ある社会が社会主義に至るためには、必ず資本主義を経なければならないと考えていた。資本主義が実現させた高い生産力、高度に発展した分業を前提として、初めて社会主義への道は切り開かれると考えていた。それゆえ、社会主義への可能性は西欧にのみ存在していた。では、西欧以外の遅れた諸国は、どうすればよいのだろうか。東方の遅れた諸国は、インドや中国のように、資本主義列強=西欧諸国の植民地もしくは半植民地になるしか、道はなかった。西欧列強の搾取や抑圧のもとで、資本主義を経験するほかなかったのである。
 ところが、1870年代初頭のパリ・コミューン敗北や、その後の第一インター解散に象徴されるような、西欧のプロレタリア革命運動の退潮のもと、マルクス主義の創始者たちは、東方へ目を向けていく。とくにロシアの急進的なナロードニキに関心を寄せるようになる。マルクスはロシア語を学びロシアについての理解を深める。
同時期、マルクスは『コヴァレフスキー・ノート』や『モルガン・ノート』に代表されるように、人類学研究もしくは古代史研究を進め、原始的な共同体もしくは農村共同体の概念を発展させていく。
1880年代に入り、ロシアの革命家ザスーリチの手紙に触発され、その回答の下書き・草稿に、ロシアの農村共同体は、幾つかの条件を満たせば、資本主義を経ずして社会主義に到達する、ロシア再生のための拠点となりうる、と述べる。その条件とは、まず、農民を収奪し、農村共同体に寄生することによって成り立っているロシア国家やロシア資本主義を、革命によって一掃することである。ロシアの農村共同体は、西欧の発達した資本主義と同時に存在しているので、そこで創造されたあらゆる成果を、取り込むことができると述べている。この部分は、同時期に書いた、『共産党宣言』ロシア語序文第二版に、「ロシア革命が西欧プロレタリアート革命にたいする合図となって、両者がたがいに補いあうなら」とあることから、革命に成功した西欧プロレタリアートとの提携が前提となっていると考えるべきであろう。

 中国の理論家たちを、心強くさせているのは、マルクスが「ザスーリチの手紙への回答及び下書き」において、次のように述べた部分である。マルクスは『資本論』第一巻において、資本主義制度のもとでの農民の収奪(資本主義草創期の原始的蓄積、すなわち生産者の生産手段からの徹底した分離)の歴史的不可避性について述べたが、それは「明瞭に西ヨーロッパの諸国に限定されて」いるとした点である。つまり、西欧には属さないロシアには、『資本論』で述べた歴史的不可避性は該当しない、ということになる。
ここから、マルクスは晩年、西欧中心史観から脱却して、非ヨーロッパ社会(東方社会)には、西欧とは別の歴史発展コース、より具体的には、社会主義に至る別の道があると考えるようになった、と解する、東方社会理論が成立する。社会主義に至る別のコースとは、西欧の、資本主義を経るコースではなく、資本主義を跳び越えるコースである。
 どうして、ロシアの農村共同体を崩壊の淵(原蓄期における農民の無慈悲な収奪)から救うという議論が、ロシア社会全体の資本主義跳び越え論となるのか、疑問とされるところである。
実際のところ、諸家(東方社会理論支持者もしくはカウディナ山道派)の議論のなかに、納得のいく説明を見出すことはできない。
だが、おそらく、農村共同体の救済のためには、ロシア革命が前提となっていること、また、そのロシア革命が西欧のプロレタリア革命の合図となり、その成功した西欧プロレタリア革命との提携のもと、ロシア農村共同体が社会の新しい支柱となる以上、ロシア革命によって成立する体制は、社会主義もしくはそれに近い性格を持つと考えることは可能であろう。
上記の文脈からして、革命ロシアの政府は、少なくとも、?@西欧プロレタリア革命と連帯可能な政府であり、?A農民の収奪(生産者の生産手段からの分離)を行わない政府でなければならないからである。
だが、この点については、趙家祥「対"跨越資本主義 夫丁峡谷"問題的商 意見」(『北京大学学報』1998年第1期)が、
もし当時ロシアに革命がおこるとしたら、その主導権を握るのは急進的なナロードニキ(人民の意志派)であり、それゆえ、その革命は、到底、社会主義といえるものではなかったことを指摘しているが、そのとおりだと思う。
 前号では、1995年前後のカウディナ山道をめぐる議論を瞥見した。筆者が取り上げた論者たちの多くは、カウディナ山道をめぐる議論に疑問を投げかける人々であった。実は、その多さにやや不思議な感じがしていた。というのも、カウディナ山道を冠した論文および東方社会理論に関する論文は、その後、ますます増えているからである。1990代、2000年代を合わせて、おそらく数百、多分、二百や三百ではとても収まらない数の論文が発表されていると思われる。そうだとすると、1995年前後の状況において、あのように疑問を投げかける理論家たちが多いとすれば、一体どのようにして議論が進んだのだろうか、と。