中国のカウディナのくびき論 (1)

 中国の検索サイト(百度、チャイニーズ・ヤフー)で、 夫丁峡谷と入力してみると、膨大な数の論文が出現する。

胡慧芳「関于跨越"夫丁峡谷"的研究」(jpkc.nankai.edu.cn/course/mks/Data/)
には、1994年から2006年にかけて発表された"夫丁峡谷"を冠した179本の論文及び著作が並んでいる。
かくも論壇をにぎわしている「夫丁峡谷」とは、あるいは「跨越 夫丁峡谷」とは、一体なんのことであろうか。

 夫丁峡谷とは、ローマ史で知られるカウディナ(カウディーネ)山道。『ブリタニカ国際大百科事典』では、カウディヌム山道(Furcule Caudinae)と記され、「古代サムニウムにあった山道。現在の南イタリア、カンパーニア州モンテサルキオ付近。前321年第二次サムニウム戦争のとき、ローマ軍はここでガイウス・ポンチウスの率いるサムニウム軍の罠にかかり、全員降伏させられた」と述べられている。

[カウディナのくびき]とは、具体的には、サムニウム人に敗れたローマ軍兵士が、3本のやりで形づくられた「くびき」を丸腰で通らされたことを指す(小学館『独和大辞典』Kaudinisch の項)。
「それは、敗れた軍隊にとって最大の屈辱をいみするものであった」(『マルクス・エンゲルス農業論集』岩波文庫)。

 では、このカウディナ山道が、一体、中国の理論家によって、如何なる文脈において用いられているのであろうか。
なぜ、この古代ローマ史の出来事が、現在の中国理論界を熱くさせているのであろうか。

それはマルクスが「ヴェ・イ・ザスーリチの手紙への回答への下書き」(1881年)において
「ロシアの共同体は、歴史に先例のない独特な地位を占めている。ヨーロッパでただ一つ、ロシアの共同体は、いまなお、広大な帝国の農村生活の支配的な形態である。土地の共同所有が、それに集団的領有の自然的基礎を提供しており、またそれの歴史的環境、すなわちそれが資本主義的生産と同時的に存在しているという事情が、大規模に組織された協同労働の物質的諸条件を、すっかりできあがった形でそれに提供している。それゆえ、それはカウディナのくびき門を通ることなしに、資本主義制度によってつくりあげられた肯定的な諸成果をみずからのなかに組み入れることができるのである。それは、分割地農業を、徐々に、ロシアの土地の地勢がうながしている機械の助けによる大規模農業に置きかえることができる。現在の状態のもとで正常な状態におかれたあとでは、近代社会が指向している経済制度の直接の出発点となることができ、また自殺することから始めないでも、生まれかわることができるのである。」
(『マルクス・エンゲルス全集』第19巻)と書いたところから来ている。

ロシアの女性革命家ヴェ・イ・ザスーリチは、プレハノフ・グループを代表して、マルクスに手紙を書き、『資本論』第一部にいわれているような、資本主義の歴史的不可避性についてロシアにも妥当するのかどうか、とくにその過程における村落共同体(ミール)の運命について、マルクス自身の意見を求めた。
 上記の引用は、その一部であるが、マルクス主義研究者には、よく知られた一節である。
なお、マルクスは何回か下書きを書きなおした後、簡単な返事を書いたのみで、上記の一節は結局、ザスーリチに送られることはなかった。

孫来斌「跨越資本主義"夫丁峡谷"20年研究述評」(『当代世界与社会主義』2004年第2期)
によれば、カウディナ山道をめぐる議論は、1980年代の栄剣、張奎良らの論考にまで遡ることができる。

張奎良「馬克思晩年的設想与・小平建設有中国特色社会主義理論」(『中国社会科学』1994年第6期)
「マルクス晩年の、資本主義のカウディナ山道を跳び越すという構想は、科学的社会主義理論の初定の枠組みを突破し、はじめて深く、東方の遅れた国家が如何に社会主義を実現するかという問題を、探究したものであり、社会主義思想における新たな開拓であった」

この「資本主義のカウディナ山道を跳び越す」(跨越資本主義 夫丁峡谷)という言い方がもっとも一般的な用法。資本主義はカウディナ山道であり、苦難の道、屈辱の道。それを跳び越すというのは、資本主義段階を経ないで社会主義に移行するということ。
20世紀社会主義でよく使用された、「社会主義への非資本主義的な発展の道」を連想されるであろう。

 なぜ、「初定」(原文のまま)とあるのか…
マルクスは当初、1850年代の「インドにおけるイギリス支配」、「インドにおけるイギリスの二重の使命」に代表されるように、アジア(非ヨーロッパ)の遅れた諸民族・諸国家にとって、資本主義化(具体的には植民地化)は不可避であると考えていた。
また、その資本主義化(植民地化)を通して、古い政治・経済システムを破砕することが可能となるという意味で、植民地化を肯定していた。
しかし、晩年、マルクスはそのような考え方を変更し、アジアの遅れた諸民族・諸国家の、資本主義を跳び越えた、社会主義発展への道を認めるにいたった。
すなわち、「ザスーリチの手紙への回答」において、マルクスは、ロシアは、資本主義(カウディナ山道)を跳び越え社会主義にいたることが可能であると述べており、これはマルクスが、西方社会主義革命とは異なった、東方社会に独自な社会主義への道を提起したことを意味し、20世紀のロシア革命と中国革命は、そのマルクス晩年の構想の正しさを実証するものである。だが、歴史的条件から、ロシア及び中国の社会主義政権は、資本主義から孤立して国内改造を進めざるを得ず、盲目的に、純粋な、社会主義建設を目指して失敗に終わった。それゆえ、資本主義の進んだ生産力、特に、発展した生産技術、科学技術を取り入れつつ進められている、トウ小平の改革開放路線は、まさに晩年マルクスの学説と事業の忠実な継承である、と。

 さらに張奎良は、1870年代末、ロシアの農村共同体に共有制が存在したように、百年後の1970年代末の中国にも、すでに20数年以上実践してきた社会主義公有制があり、マルクスが晩年、ロシアに認めた未来社会への発展の出発点もまた、百年後の中国に備わっており、それこそが、トウ小平の中国の特色ある社会主義の道の出発であると述べている。
彼ら「カウディナ」議論の提唱者たちが、如何なる政治スタンスによって、これらの議論を主導していたのか、理解できる。

 1980年代のアジア的生産様式論争の後半に、新しい世代の論客として登場した孫承叔は、広義の「東方社会理論」の旗手という意味で重要な存在である。
孫承叔「東方社会主義理論的第四次飛躍--トウ小平理論的歴史地位」(『復旦学報』1995年第4期)
は、「ザスーリチの手紙への回答」の一節を引用し、「これはマルクスが初めて、東方社会が資本主義(カウディナ山道)を跳び越えることが可能となる仮説を提出したものであり、これによって我々は東方社会主義の道に関する最初の理論的飛躍と見なすことができる」と評価。ちなみに、第二次理論的飛躍は晩年エンゲルスが、第三次飛躍はレーニンの晩年が、そして最後の第四次飛躍は、トウ小平が担ったとされる。
 張奎良も、孫承叔も、中国の伝統社会がアジア的生産様式にもとづく社会であったと考える点において共通している。さらには、ロシアもまた東方社会に属し、アジア的生産様式のもとにあるということなろう。

 1989年天安門事件以降、中国は異常な緊張に包まれ、1990年代前半は、政治的にきわめて不安定な時期であった。
しかし、1992年から94年にかけ、謝霖、江丹林、劉啓良などによるカウディナ山道をめぐる専著が幾つか出版される(孫来斌,2004)。そして、1994年から1996年にかけ、張奎良、江丹林、王東、徐崇温らによって、東方の遅れた国家による資本主義(カウディナ山道)の跳び越えに関する諸論文が相次いで刊行され、ブームとでもいった状況をつくり上げていった。

 まず、中国の理論家たちの反論。
孫来斌は、カウディナ山道をめぐる議論において中間的な立場をとっており、そのためか、孫来斌(2004)には、カウディナ山道を冠した資本主義跳び越え論に懐疑的な立場の論文が、主要な論文として、幾つも挙げられている。

陳文通「"跨越"夫丁峡谷, 還是"不通過"夫丁峡谷?」(『当代世界与社会主義』1996年第4期)
は、マルクスのカウディナ山道を通らない道に関する論述は、ロシアの農村共同体に関して提出されたものであって、それを東方の遅れた国家とか経済文化未発達の国家全体へと拡大することは、誤りだと指摘。
また、許全興「請不要誤解馬克思--関於"跨越資本主義 夫丁峡谷"的辨析」(『理論前沿』1996年第18期)も、マルクスにとってロシアは1861年以降、資本主義の道に入りこんでいたのであって、ロシア社会が資本主義を跳び越えるなどという問題はすでに存在していなかったと述べる。

 さらに趙家祥、段忠橋は、後に社会構成体論をめぐって厳しい論争を繰り返すが、この時点では、ともにカウディナ山道の議論に否定的である。

趙家祥「対"跨越資本主義 夫丁峡谷"問題的商 意見」(『北京大学学報』1988年第1期)は、
マルクスの言わんとしていたところは、ロシア革命を発端とした西欧のプロレタリア革命の勝利のもとにおいて、西欧資本主義の積極的な成果をもってロシアの社会主義的改造を助け、ロシアの農村共同体の共有制が共産主義の出発点となることであったと指摘。

段忠橋「対我国跨越"夫丁峡谷"問題的再思考」(『馬克思主義研究』1996年第1期)
は、ロシアの農村共同体が本当に資本主義(カウディナ山道)を跳び越えるとしたら、それはカウディナ山道を通り抜けた西欧革命のもとでのみ、それが可能であるとマルクスが考えていたと述べる。
つまり両者ともに、カウディナ山道を冠した資本主義跳び越え論が成立しないことを指摘している。
 孫来斌(2004)にはその名があがっていないが、
呉銘「跨越"夫丁峡谷"設想与東方社会主義併不聯繋」(『中国人民大学学報』1996年第1期)
も、趙家祥や段忠橋と同じように、カウディナ山道をめぐる跳び越え論を厳しく批判している。呉銘は「ザスーリチの手紙への回答」と同時期に執筆された『共産党宣言』ロシア語序文第二版(エンゲルスと共著)において、ロシアの農民共同体は、「もし、ロシア革命が西欧プロレタリアート革命にたいする合図となって、両者がたがいに補いあうなら、現在のロシアの土地共有制は共産主義的発展の出発点となることができる」(『全集』第19巻)と述べられている点に着目し、この両者互いに補うという意味が、高度に緊密な関連をもった世界における革命の同時性を述べたものであり、主導的な働きをなすのは、遅れた国家ではなく、資本主義の先進的な成果を継承した西欧プロレタリアートであり、遅れた国家、民族はそれに依拠しなければ、飛び越え自体ありえないとマルクスやエンゲルスが考えていたことを明らかにしている。
実は、この『宣言』ロシア語序文第二版の一節は張奎良、孫承叔らの論客たちも引用しているが、充分な配慮が払われているとは言い難い。

この辺は、すでに淡路憲治『マルクスの後進国革命像』(未来社,1971)に親しんでいる我々にとっては十分に説得的である。
このようなマルクスの構想からみれば、ロシア革命や中国革命は大きく離れたものである以上、カウディナ山道資本主義跳び越え論がいう、両国の革命はマルクス晩年の構想、東方社会理論にもとづくものとはいえないのである。

呉銘は、ロシアや中国などの東方の社会主義は、20世紀の社会主義の道の重大な変化、転換から生じたもので、いかなる既成の理論や原則の体現でもなかったとしている。