東北・戊辰戦争の回顧…[八重の桜](NHK)に寄せて、郷土史の点検

『八重の桜』は舞台が福島県ということで、東北復興ドラマとしてPRされてます、
会津藩に批判的立場を取らないのはわかりますが、戊辰戦争をあまりに[会津藩の悲劇]との観点では…歴史に対して基本的誤解に終わるとも思います。

以下は福島県人として、郷土史を見直す作業です。


仙台藩米沢藩会津嘆願運動について

[関宿会談]
◆慶応4(1868)年4月29日、現在の宮城県刈田郡の関宿にて
会津藩の嘆願についての協議を行なっています。

◆参加者
仙台藩の代表、家老の坂英力(さかえいりき)、但木土佐、真田喜平太
米沢藩の代表、家老の木滑要人、片山仁一郎、大瀧新蔵・会津藩家老の梶原平馬

仙台藩側の史料である『仙臺戊辰史』を参考に再現 (原文は文語体であり、わかりにくいので、現代文に翻訳してます)


仙台藩但木土佐→会津藩梶原
「今回、会津藩が謝罪降伏を申し入れるは、城を明け渡すことはもちろんのこと、首謀者の首級を差し出すべきではないかと思うがいかがでござる?」
(首謀者とは鳥羽・伏見の戦いの責任者を指す)

会津藩梶原の反論
「藩主公の城外謹慎については応じるが、首謀者の首級を差し出すことは無理。鳥羽・伏見の戦いに関係のある者はほとんどが戦死し、生き残っているのは一両名だけである。
これらの者は藩のために忠義を尽くしたのであり、彼らの首を斬れば藩内は動揺して変事が起きるかもしれない。
鳥羽・伏見の件については、徳川慶喜公が一身に責任を負い、その謝罪嘆願状にも、『私一身の罪であって他の将の誤りではない』と記載し、朝廷もこれを受理しているではないか。
それ故に、我が藩に罪があったとしても、罪は既に消滅しており、さらに罪に問われて討伐を受ける理由はない」

 (この梶原の論は、理屈的にはその通りかもしれない。しかし、会津藩仙台藩が直面している現実=[既に奥羽鎮撫総督府が東北に派遣され、そして会津藩を攻めようと奥羽諸藩を督戦している状況]…正論が通用しない、という状況にあるわけで、この段階で梶原の発言が通用するはずが無い。そのために、仙台や米沢藩が日夜協議しているのであるから、仙台藩米沢藩重臣達は、「何を今更そんな正論を持ちだしているのだ……」と失望する気持ちになったかもしれない。)

仙台藩但木
「首謀者の首級を差し出さないとあっては、降伏謝罪の嘆願の取り次ぎは出来ない。例えその願いを取り次いだとしても、総督府は決してそれを許さないだろう。その時は貴藩はどうするのか?」

会津藩梶原
「その時は、会津藩士、皆死をもって領土を守るのみである」
(この辺りの会津藩梶原の論は精神論であり、仙台や米沢藩は、現在の奥羽諸藩が置かれた実状を踏まえた上で、現実策を取ろうとして模索し、協議を行なっているというのに対し、会津藩は精神論で対抗するとあっては、嘆願も何もあったものではない。)

仙台藩但木
「全藩皆死をもって戦うのと、僅かに一両人の首級をもって、会津藩の国命に換えるのと、どちらが大事であるか、よく考えるべきではないか」

梶原は思案を続けるが、結論が出ない様子…

やり取りを見ていた仙台藩真田喜平太は、梶原に対して次のように言う。

「もし、首謀者の首級を差し出せないということなら、速やかに帰って軍備を整えて待たれよ。我は諸君と戦場で相まみえようではないか。
元来、臣子の罪は君父の過失でもある。貴藩が君臣の義を正すのであれば、鳥羽・伏見の一挙は慶喜公の過ちにあらず、実に容保公の罪と言うべきものではないか。
また、貴殿にあっては『先の一挙は、藩主容保公の罪ではない。我々重臣共の罪である』と言うべきではないか」
 (容保公の罪は家臣である貴殿らの罪と言えるではないかと、首謀者の首級を差し出せないと言った梶原の論に反論したのです。)

こう真田に言われては梶原も納得せざるを得なく、梶原は深く考えた後、
「確かに貴殿の言う通りである。では、首謀者の首級を差し出すことにいたそう。しかしながら、奥羽鎮撫総督府の参謀は薩長両藩の藩士と言うではないか。我藩がいかに誠意を尽くし、首謀者の首級を差し出したとしても、彼らは元々会津を討伐して私怨を晴らそうという心積もりなのだから、また無理難題を突き付けるに違いない。この点はどうすれば良いのか?」
 と逆に問いかけてきた。

但木は次のように言う。
「誠心誠意を尽くして悔悟の実を態度に示せば、必ずその嘆願は聞き届けられる。このことについては拙者達が保証する」

梶原は
「それでは、一応国元に帰って藩主公(容保)に事情を申し上げ、首謀者の首級を差し出して、悔悟の実を表し、嘆願書を持参いたす」

これで関宿での会津藩と仙台・米沢両藩の会談は終了した。


 会津藩嘆願運動に奔走する仙台や米沢藩の人々は、戦を好まない九条ら公卿衆に目をつけ、「彼らを上手く丸め込んで事を謀れば、会津の嘆願も何とかなるのではないか」 という望みを持っていたことが、関宿での但木土佐の強気な姿勢に現れているよう。

 しかし、会津藩自体は「寛大に処する用意がある」という通達を20日間も無視し、そして閏4月15日付けで、回答書を総督府に対し送り返す。
『御沙汰の趣意はありがたく拝承いたしましたが、我々は徳川家の家名がどうなるかを見届けない内は、謝罪をするつもりはない覚悟でございますので、その旨を願い上げます。以上。
 陪臣松平肥後守(容保)』

この回答書は一種「宣戦布告書」とも取られかねない、非常に危険な強行姿勢を示した文書である。
関宿の会談において、梶原に念を押した但木らの意向はことごとく無視され、仙台や米沢藩の嘆願運動を全て無駄にするような挑戦的な文面と言える。

 会津藩は「会津が謝罪の態度を示すならば、寛大な処置にしても良い」という総督府の通達を完全に無視し、「これは総督府の謀略に違いない。こうやって油断させておいて、結局は討伐するつもりである」と勝手な判断を行い、このような文書を総督府に対し送りつけたのである。

 これによって、仙台や米沢藩の嘆願運動は失敗し、会津藩と奥羽諸藩の運命は決したと言ってもよいでしょう……。

 この会津藩の回答書については、長州藩の通史でもある『防長回天史』を著した末松謙澄は
当時の会津藩の態度を(総督府の行ないと言えば、何事も色眼鏡をかけて見るかのように拒否している)と論じています。

慶応4(1868)年3月2日、奥羽鎮撫総督府が京から仙台に向けて出発…総勢でも約570名程度の少数兵力でした。

 会津藩を筆頭に、仙台、米沢、秋田、南部などの大藩がひしめく東北を570名程度の兵力で鎮撫しようとしたことには無理があったようです。

当時の新政府には、「奥羽諸藩の鎮撫に関しては奥羽諸藩の兵力を使って処置する」…という方針がありました。

当時、徳川家の江戸城はまだ開城されておらず、幕府軍はそのまま存在、新政府は東北地方に大きな兵力を割ける状態ではありません。

 当時の新政府自体の基盤からは…多数の兵力を東北に派遣することは不可能でした。

新政府が目をつけたのは仙台藩の存在…仙台藩は62万石を有する東北一の雄藩であり奥羽諸藩の盟主的な存在…当時の新政府は、奥羽鎮撫の主要な目的である「会津藩討伐」を仙台藩を中心にした奥羽諸藩で行なわせようと考えていたのです。

 新政府が慶応4(1868)年1月17日付けで仙台藩に下した勅命
 「会津藩松平容保は、この度徳川慶喜の反謀に与して、錦旗に発砲し、大逆無道の行ないであったので、征伐軍を発することになった。そのため、貴藩一藩の力をもって会津本城を襲撃したいとの趣旨の出願をしたこと、武士道を失わない奮発の心がけ、誠に神妙の至りで、主上天皇)もご満足の思し召しである。よって、貴藩の願い出の通り、会津征伐を仰せ付けるので、速やかに追討して功をあげるよう御沙汰する。戊辰正月」

これは仙台藩にとっては、青天の霹靂…「我が藩一藩をもって会津藩を攻めたい」という正式な願い出を行なった事実がなかった。

仙台藩側は新政府に対し、「このような願い出を行なった事実はありません。何かの誤解ではないでしょうか」と申し出て、
1月20日に改めて下された勅命からは、「其ノ藩一手ヲ以テ」という言葉が削除される。

大久保一蔵(後の利通)が、1月16日付けで薩摩に居た島津久光の側近、蓑田伝兵衛に宛てた手紙
仙台藩主(伊達慶邦)も近々上京するとのことであり、また仙台藩の重役が上京し、会津藩征伐を一手に仰せつかりたいとの願い出がありました。関東より西は近いうちには治定する見込みが立っておりますが、関東より東は甚だ難しいと思っておりましたところ、仙台藩よりこのような願い出があり、官軍に属すということは非常に喜ばしい次第で、これで巣窟を砕くことも安易なことになりました。これで何事も全て治定した上で征東することになろうかと思っております」

やはり仙台藩からは正式な願い出ではないながらも、口頭か非公式の申し出は、何らかのアクションが仙台藩関係者からあったことは間違いないよう。

慶応4(1868)年1月12日に仙台藩士・坂本大炊(さかもとおおい)と一条十郎の二人が論と藩主の主命を奉じて京に入った。

 大久保が「仙台藩の重役が上京し」と書いたのは1月16日。

 そして、「其ノ藩一手ヲ以テ」の勅命が仙台藩に下されたのが1月17日。

 日づけと経過、そして後の行動を考えるなら
仙台藩から内々にアクションを起こした人物とは、坂本であったと見当をつければ事実と符合するように思います。

・東北地方に大きな兵力を割くことが出来なかった
・新政府の東北諸藩鎮撫に関する基本方針が奥羽諸藩同士で決着させるということであった
・新政府の仙台藩に対する大きな期待…
…三つの理由から、新政府は奥羽鎮撫総督府にわずか570名程度の兵しか付けず、東北の地に送り込むことにしたのです。

 しかし、結果論からは、新政府の考え方や方針は実に甘いものであったよう。奥羽鎮撫総督府が仙台に入って後も、奥羽諸藩の動向や方針は定まらず、結局は事態が複雑化し、参謀の世良が暗殺されて、事態は最悪の戦争へと突入していく。

 東北の地に入っても、まだ奥羽諸藩の動向がはっきりしない不安定な情勢の中、兵力も非常に乏しかったことから、世良が唯一頼りに出来たのは「朝廷の威光」のみであったのではないでしょうか。兵力を背景に持っていない世良の立場は、まさに「綱渡り状態」とも言うべき非常に危ういものであり、彼が唯一武器に出来る物とは、「朝廷から派遣された軍隊である」という肩書きだけしかなかったと言えると思います。

 世良がことさらに武張って、人を人とも思わないような尊大な態度を取った理由の心底には、奥羽鎮撫総督府下参謀という大役を立派に果たしたいという責任感が、世良自身の異常なまでの気負いとなってしまったことが、原因となっているのではないかと思います。
また、重要な使命を課され、大きな重責を背負った人間は、その重圧からくる大きなプレッシャーから、逆に弱みを見せないために大きな態度に出るようになるということは、よくある傾向と言えるのではないでしょうか。

 世良としては、「朝廷から派遣された官軍である」ということを全面的に押し出して、奥羽の諸藩を厳しく督戦することが、自らの弱みを見せないことにも繋がり、また何よりも効果がある手段と考えていたのかも。

 しかしながら、実際はその効果が大きく逆に出てしまった。

 世良は「朝廷の威光」を大きく見せるために、敢えてこういう厳しい態度で奥羽諸藩の重臣達に接したのでしょうが、そのことが彼ら重臣達にとっては、世良が誠に失礼極まりない人間と映り、逆に奥羽諸藩が新政府に対し、大きな不信感を生む。

 そして、その不信感が、やがて大きな抵抗感へと変わり、事態に窮した仙台藩士達が世良を暗殺することにより、奥羽諸藩は自らの生き残りをかけることになります。

世良暗殺が戊辰戦争勃発の大きな原因となり、最終的には東北の平和を望んでいたはずの奥羽諸藩が、新政府と敵対せざるを得ないことになるのですから、歴史は思わぬ結末を生みだすものであると感じらます。