カウディナのくびき(5)

 「ザスーリチの手紙への回答および下書き」
中国ではテキスト・クリティークが行われていない、初歩的ながら、検討してみたい。

カウディナ山道という言葉が出てくる当該個所の原文(仏語)を示すと、第一草稿の最初の出現箇所

《仏語原文》
De l'autre c t , la contemporan it de la production occidentale, qui domine le march  du monde, permet la Russie d'incorporer la commune tous les acqu ts positifs labor s par le syst me capitaliste sans passer par ses fourches caudines.

この各国語訳は以下のようである。
《ドイツ語訳》
Andererseits wird es Ru land erm glicht, durch die Gleichzeitigkeit mit der westlichen Produktion, die den Weltmarkt beherrscht, der Gemeinde alle positiven Errungenschaften, die durch das kapitalistische System geschaffen worden sind, einzuverleiben, ohne durch das Kaudinische Joch gehen zu m ssen.

《英語訳》
On the other hand, the contemporaneity of western production, which dominates the world market, allows Russia to incorporate in the commune all the positive acquisitions devised by the capitalist system without passing through its Caudine Forks.

《中国語訳》
一方面,和控制着世界市 的西方生 同 存在,使俄国可以不通 本主 制度的 夫丁峡谷,而把 本主 制度的一切肯定的成就用到公社中来。

《日本語訳・平田清明訳》
他方において世界市場を支配している西洋の<資本主義的>生産と同時に存在していることは、ロシアがカウディナのくびき門を通ることなしに、資本主義制度によってつくりあげられた肯定的な諸成果のすべてを共同体のなかに組みいれることを可能にしている。(『マルクス・エンゲルス全集』第19巻)

《日本語訳・手島正毅訳》
他方において世界市場を支配している西洋の生産が時を同じくして存在していることが、カウディーネの岐路を経ることなしに、ロシアが資本主義制度のつくりあげた肯定的な諸成果をこの共同体のなかに汲みいれることを可能にしている。(『資本主義的生産に先行する諸形態』国民文庫)


※第一草稿では、もう一か所、カウディナ山道が使われている。
《仏語原文》
Elle est m me de s'incorporer les acqu ts positifs labor s par le syst me capitaliste sans passer par ses fourches caudines.

 このドイツ語、英語、中国語、日本語訳は以下である。

《ドイツ語訳》
Sie kann sich alle positiven Errungenschaften aneignen, die von dem kapitalistischen System geschaffen worden sind, ohne dessen Kaudinisches Joch passieren zu m ssen.

《英語訳》
It is in a position to incorporate all the positive acquisitions devised by the capitalist system without passing through its Caudine Forks.

《中国語訳》
它有可能不通 本主 制度的 夫丁峡谷,而享用 本主 制度的一切肯定的成果。

《日本語訳・平田清明訳》
それは資本主義制度のカウディナのくびき門を通ることなしに、資本主義諸制度によってつくりあげられた肯定的な諸成果を、みずからのなかに組み入れることができるのである。

《日本語訳・手島正毅訳》
それは、カウディーネの岐路を経ることなしに、資本主義制度がつくりあげた肯定的な諸成果を汲みいれることができる。

 なお、第一草稿には、削除されたパラグラフのなかにも、カウディナのくびきが使われているが、第二のものと、ほぼ同じ文である。


 以上の、仏文、ドイツ語訳、英語訳は、以下より入手している。

http://www.communisme-bolchevisme.net/download/Marx_Engels_Textes_choisis_1875_1894.pdf

http://www.mlwerke.de/me/default.htm

http://www.marxists.org/archive/marx/works/1881/03/zasulich1.htm

 中国語訳については
『馬克思恩格斯全集』第19巻から引用している。


 上記の仏文及び各国語訳から理解できることは、
中国語訳
「可以不通過資本主義制度的 夫丁峡谷, 而把資本主義制度的一切肯定的成就用到公社中来」、

あるいは
「它有可能不通 本主 制度的 夫丁峡谷,而享用 本主 制度的一切肯定的成果」

の訳は間違っているわけではない。
中国語訳も、それを日本語に訳せば、ほぼ同じ意味になる。

 だが、文のかかり方が、中国語訳では異なっている。
仏文及びドイツ語、英語訳とも、
「できる」と言われているのは、
「資本主義が作り上げた一切の肯定的成果を吸収すること、自らのものにすること」、である。
そして、それに、「カウディナの岐路を経ることなしに、あるいはカウディナのくびきをくぐることなしに、可能となるのだ」、
ということが後から追加されている。
つまり、仏文やドイツ語、英語訳では、
中国語訳で問題となっている、カウディナ山道は「通過しなくてもよい」のか、それとも「跳び越えることができる」のか、といった議論は…最初から成り立たない、少なくとも文の中心的な意味ではないと考えられる。

中国語訳が上記のような訳になったのは、sans+不定法、ohne+zu 不定詞、without+動名詞で表わされるような、「〜することなしで〜を可能にする」前置詞がないからである。
各々の言語に、どんな言い方があるのか、ないのかというのは、ある意味では偶然の問題である。その偶然が、とてつもない「大発見」を生むことに繋がったのである。
逆にいえば、仏文、ドイツ語、英語訳を利用する限り、中国の理論家たちのような「カウディナ山道」に巨大な意味を持たせることはない、といえる。
たとえば、シャーニン(Teodor Shanin)『後期マルクスとロシアの道』(Late Marx and the Russian Road, 1983)に収録されている「ザスーリチの手紙への回答および下書き」の英訳では、
without having to pass under its harsh tribute となっており、カウディナのくびきは harsh tribute (重い負担、代償)と意訳されている。
カウディナのくびきに、何か特別の意味があるとはシャーニンも考えなかったのであろう。以上は、カウディナ山道をめぐる議論が、どうして中国においてのみ生じたのか、ということを理解する、十分な手がかりになると思われる。

 では何故、中国の論争において、まったくといってよいほどテキスト・クリティークがなされなかったのであろうか。論文が数百篇もある領域において、まったくないというのも奇妙であろう。あるいは、テキスト・クリティークの不可能性が存在すると考えた方がよいのかもしれない。
 反カウディナ派のなかに、外国の文献を閲覧する可能性の高い人々が多く存在する。たとえば、1996年、反カウディナの論陣をはった段忠橋(1951年生)は、当時中国人民大学哲学院教授であったが、1990年代前半にエセックス大学で学んでおり、原文や独訳、英訳を閲覧することが可能であったと思われる。
張光明(1955年生)は人民大学国際政治系で博士号を取得しており、2003年論文発表当時、中央編訳局研究員であった。さらに呉銘(1955年生)は、1996年当時、中国人民大学国政系の博士課程生であったと思われる。呉銘については、反カウディナの先陣を切ったすぐれた論考にもかかわらず、その後の消息がまったくない。当時、段忠橋や張光明と無関係であったと想定するのは不自然であろう。そのほか、許全興(1941年生)は当時中央党校副教授であった。また、陳文通はおそらく中央党校研究員であったと思われる。中央党校という党の理論機関から、カウディナ山道資本主義跳び越え論への批判が提出されたということ、これをどう理解すべきか、今となってはその手がかりをみつけることは容易ではないが、少なくとも、この事実は、党校という機関の性格を考える上で、興味深い事実であると思われる。
上記からわかるごとく、呉銘以外は、原文や独訳、英訳を入手したり閲覧したりすることが容易であったと思われる。また、その呉銘にしても、入手の可能性はあったと考えられる。
 逆もまた真なりである。反カウディナ派が原文を読んでいた可能性があるということから、カウディナ派の俊英たちもまた、原文を読んでいた可能性が高い。それは、『馬克思主義来源研究論叢』第11輯(1988年)からも窺えるように、マルクス『民族学ノート』(人類学ノート)研究に結集した栄剣(1957年生)ら若手理論家たちは、一般的に、原書や原文に高い関心を示しているからである。
彼らは、原文を読んだにもかかわらず、それもでもなお、東方社会理論の中核にカウディナ山道資本主義跳び越え論を据えた、あるいはカウディナ山道の理論を主張し続けたと考えた方が、より合理的であろう。

なぜなら、無理であろうとなかろうと、彼らは理論的に突破しなければならなかった。
1980年代後半においては、資本主義補講論を論破するために、1990年代前半は、天安門事変以降の逼塞状況を打破するために、である。
 それゆえ、現在、原文を持ち出し、カウディナ山道資本主義跳び越え論が、マルクスの理論からも実証されえないといったところで、彼らは聞く耳をもたない。
だが、理論的な無理押しはいずれ破綻する。かの、世界史の基本法則、スターリンの歴史発展の五段階論は、20世紀社会主義の崩壊とともに、跡形もなく消え去った。
カウディナ山道資本主義跳び越え論、あるいは東方社会理論は、中国がこれまで誇ってきた数々の理論、たとえば、主観的能動性に関する理論、儒法闘争史観、三つの世界理論などと同じように、いずれ記憶の彼方に消え去るであろう。
だが、そのような時期が来るまで、なおしばらく現在の隆盛を享受し続けるであろう。