カウディナのくびき(4)

 東方社会理論は、徹底した生産力主義をとっている。「進んだ・遅れた」の基準は生産力の差である。生産関係は二次的なものとされ、ましてや政治システムや文化はほとんど無視されている。生産関係が二次的なものとされているのは、ソ連や中国が先進的な生産関係、すなわち社会主義的生産関係をとっていたのに、経済的には欧米に大きく後れをとってしまったことを説明できないからである。

はたして社会主義ソ連や中国の生産関係が、資本主義よりも先進的なものであったのかどうか、むしろ、アジア的生産様式や、オリエンタル・デスポティズムに飼いならされた生産システムにもとづくものではなかったのか…などとは、もちろん考えるはずもないのであろう。
東方社会理論の力点は、スターリンや毛沢東の体制のもとで、生産力の発展が無視されたこと、それゆえ欧米資本主義にひどく後れをとり、1989-1991年の崩壊を招いたこと、に置かれている。
そうである以上、1989年天安門事変以降の困難な時期にあっても、欧米の経済的な包囲のなかでも、欧米先進諸国との経済交流は維持され、発展されなければならない、と論者たちは力説したい。
そこで持ち出されているのが、「ザスーリチの手紙への回答及び下書き」の、進んだ西欧諸国と同時に存在していることが、遅れた、古き農村共同体の再生に有利に働く、との一節である。同時期の『共産党宣言』ロシア語序文第二版にある「ロシア革命が西欧プロレタリアート革命にたいする合図となって、両者がたがいに補いあうなら」の一節も、時に引用され、ともに、西欧資本や経済システム導入の理由づけに供せられている。
だが、この交流はあくまでも、経済的なもの、あるいは中国の改革に役立つものでなければならない。マルクスやエンゲルスが、東西の革命が相補う、と述べた場合、交流は経済的なものだけに限らない。むしろ、デスポティズムに慣らされた東方の労働者や農民のためには、西欧プロレタリアートが培った政治システムの導入もまた重要であったはずである。それがなければ、東方では、労働者も農民も、せっかく獲得した政治的権利を、再び革命指導者に譲り渡してしまう可能性が高いからである。

 現在の中国のマルクス主義者にとって、そのような議論は余計なものであろう。さらにいえば、東方社会理論は、装いを新しくした中体西用論である。一般的には、誰であれ、中国の要路の人々は中体西用論者であるといえよう。欲しいのは、外国の進んだ生産技術、生産方法であって、文化はむしろ中国が進んでいるので、国外のものは必要ない。政治システムは、国外のものは国情に合わないので、頑固に拒否する。まさに、それらの点において、東方社会理論は、マルクス主義の皮を被った中体西用論である。
遅れた中国の改革のためには、欧米の進んだ生産技術、生産方法を導入しなければならない。だが、マルクス主義にもとづき民主集中制は維持されなければならない、それゆえ、政治システムの導入は論外である。また、経済に付随してやってくる文化的なもの、とくに思想や価値観は、できるだけ侵入を阻止しなければならない。なぜならば、中国の方が優れているからである、あるいは外国のものは汚れているからである。もし、導入しなければならないとしたら、文化のなかでも経済文化、それも改革に役立つ経済文化を選択的に導入すればよいのだ、云々。(続く)

カウディナのくびき その三
 今度こそはと思い、1990年から2010年までの、アジア的生産様式論及び東方社会理論(カウディナ山道跳び越え論を含む)を、一気に読んでみた。たぶん、これまでの分と合わせ、アジア的生産様式論100篇余、東方社会理論100篇余、計200篇余りを読んだことになる。
さらに、カウディナ山道資本主義跳び越え論の礎となった栄剣「関於跨越資本主義"夫丁峡谷"問題」(『哲学研究』1987年第11期)、
およびおそらくは東方社会理論をタイトルに冠した最初の論文、張奎良「馬克思的東方社会理論」(『中国社会科学』1989年第2期)も入手し、1980年代後半の、これらの理論の草創期の雰囲気を知ることができた。

 早い時期のものは、江婉貞「中国的発展不必通過資本主義制度"夫丁峡谷"」(『文匯報』1987年3月4日)である。
この論文は、当時民主派の代表的論客の一人であった王若望などが主張したとされる資本主義補講論への反論、資本主義を跳び越え社会主義段階に入ることはマルクスの社会発展論に反しており、中国は資本主義をもう一度学びなおすべきだとの主張への反論として書かれている。
カウディナ山道の議論が1980年代後半になぜ始まったのか、ようやくわかってきたといえる。

当時の視点からいっても、今日的視点からいっても、資本主義補講論は間違ってはいなかったと思う。その後の中国の歩みはまさに、資本主義の補講そのものだったからである。それも、政治システムだけは伝統的なまま温存し、経済にかぎって資本主義をまねるという悪しき選択であった。権力の一極集中は修正されず、権力にぶらさがるものが栄え、富むという状況に何ら変わりはない。また、経済的に進んだ西欧から、ものや技術は欲しいが、文化的なもの、とくに考え方や制度的なものは受け付けないとする中体西洋論の横行をまねいている。
 おそらく、上記のような資本主義補講論を否定し、資本主義跳び越え論を如何に正当化するかという理論的課題が、カウディナ山道資本主義跳び越え論登場の背景であろう。
その登場が、趙紫陽のもと、社会主義初級段階論が登場した時期にほぼ重なるからである。初級段階の社会主義という微妙な表現は、受け取り方によっては、資本主義を再評価し、学びなおさなければならないという補講論に類似していたからである。

この課題(資本主義跳び越え論を如何に正当化するかという理論的課題)を担ったのが、多分、栄剣など若い理論家たちであり、彼らは晩年マルクスの人類学研究の再評価のなかから、「ザスーリチの手紙への回答および下書き」の意義を「再発見」したのであろう。
このプロセスは、『馬克思主義来源研究論叢』第11輯(1988年、商務印書館)からもうかがえる。同書は、マルクスの人類学研究の理論的な検証を目指したものであるが、19本の論文のうち、カウディナの議論に関連しているものが8本ほど掲載されている。

そしてアジア的生産様式論争にせよ、東方社会理論(カウディナ山道跳び越え論)をめぐる論争にせよ、論争の帰趨はすでに1990年代の後半には定まってしまっており、2000年以降はその延長で、内容的には平板なものにしかならない。

 2000年以降に、読むに値するものがまったくないというわけではない。筆者が入手した2000年から2010までの論文は、100篇ぐらいだと思われるが、そのなかでは張光明の二つの論文「関於所謂“跨越資本主義 夫丁峡谷設想”的真相」(『当代世界与社会主義』2003年第1期)、「従“跨越”到不可“跳躍”--重評普列漢諾夫的俄国社会発展規劃」(『当代世界与社会主義』2003年第2期)は、出色である。
『馬克思伝』(中央党校出版社,1998年)の著者だけに、「ザスーリチの手紙への回答および下書き」をめぐる背景、とくにロシアのナロードニキとマルクスやエンゲルスの関係が詳しく述べられており、そこから、マルクスが東方社会における社会主義への道、すなわちカウディナ山道資本主義跳び越え論を構想するに至ったなどという議論はまったく成立しないことを力説している。
だが、今のところ、唯一のカウディナの議論に関する総評である孫来斌「跨越資本主義"夫丁峡谷"20年研究述評」(『当代世界与社会主義』2004年第2期)は、カウディナ批判派の論文も公平にその名を挙げているが、何故か張光明には言及しない。