カウディナのくびき(3)

 今回読んだ論文は、そのほとんどが1990年代後半のものであり、そしてその著者のほとんどがカウディナ山道派、東方社会理論の支持者たちであった。

明確な批判者といえるのは陳明軍「馬克思没有提出跨越資本主義" 夫丁峡谷"的思想」(『河南師範大学学報』1999年第3期)のみであった。
ということは、1990年代後半、おそらく1997年頃にはすでに勝負がついていたのだと思われる。
郭榛樹「一個跨世紀的難題:"跨越 夫丁峡谷"--馬克思的東方社会理論研究綜述」(『企業導報』1997年第3期)に
かつて、中国はまったくカウディナ山道を越えていない、あるいはカウディナ山道を越えることができない、さらには資本主義の補修を受ける必要があるという誤った観点をとるものがいたが、近年来の探究や討論によって、上述の誤った思想は基本的に除去された、と述べているのが参考になると思われる。
資本主義の補修を受けるというのは、ソ連や東欧のように、社会主義からいったんカウディナ山道に戻って、資本主義を一定期間やり直す必要があると主張するものであろう。

 中国はいまだカウディナ山道を抜け出していないと主張して批判を浴びたのは、
段忠橋「対我国跨越" 夫丁峡谷"問題的再思考」(『馬克思主義研究』1996年第1期)
彼はまず、ロシアの農村共同体には古代以来の共同体的土地所有を保っていたという優位性があり、それゆえ、カウディナ山道を抜け出した西欧プロレタリアの社会主義革命の後に、資本主義がつくり出した成果を取り込むことができるとされたのであり、そのよう共同体的土地所有を保持していなかった半植民地半封建の中国社会には、カウディナ山道を跳び越える可能性は存在しなかったと述べている。
さらに、諸家を怒らせたのは、中国はいまだ完全にはカウディナ山道を抜け出していないと述べたことである。
なぜなら、我が国は資本主義経済の要素を消滅させていないし、それどころか、今後長い期間にわたってこの要素の存在を許し、さらに発展させようとしている。中国はマルクスが述べるような社会主義社会に到達していないし、また西欧の発達した資本主義社会がカウディナ山道を抜け出していない以上、我が国もまた完全には資本主義というカウディナ山道を抜け出してはない、と段忠橋は述べる。
 この段忠橋の主張は、我々にとっては極めてまっとうなものである。だが、たとえ初級段階ではあれ中国がいまだ社会主義を国是とする以上、社会主義を資本主義と同じ水準で扱うことは許されない。
布成良・陳海濤「我国没有走出"夫丁峡谷"?--与段忠橋商」(『馬克思主義研究』1996年第6期)、
張志義「我国目前還没有走出資本主義制度的"夫丁峡谷"?」(『学術季刊』上海社会科学院、1997年第1期)、
徐久剛「我国目前是否已走出資本主義 夫丁峡谷--簡評両種対立観点」(『社会科学』1997年第11期)
は、ともに、段忠橋に批判を浴びせているが、その根拠はいずれも薄弱である。20世紀ソ連で生まれ、中国もそれに倣った社会主義は、資本主義とは異なり、社会主義である以上、それはすでにカウディナ山道を抜け出したのだ、資本主義を越えたのだとか、中国の社会主義はマルクスが描いた社会主義よりは低い段階であるとはいえ、初級段階であっても社会主義であり、それをカウディナ山道とみなすことは、社会主義を否定するものだとか、中国はもともとカウディナ山道に入り込んでおらず、かつ1949年には社会主義段階に入ったので、カウディナ山道を抜けるとか抜けないなどということは問題にならないなどと言われようと、それらを信じるのは、あまりにも歴史に無知であるとしかいいようがない。どのような形であれ、社会主義と名がつけば、それ自体で資本主義以上に価値があると信じるものだけが、そのように言えるのだろう。

姚亜平「対馬克思"跨越 夫丁峡谷"設想研究的幾点思考」(『南昌大学学報』1998年第4期)
には興味深い記述。
マルクス・エンゲルスの東方社会理論は、後の実践とは大きく違うものであった。それは、パリ・コミューン以後、西欧にはプロレタリア革命が起こらず、東西のプロレタリア革命が互いに相補うという条件が実現しない状況のもとで、ロシアも中国も、社会主義建設を始めなければならなかったからである。東方の遅れた国々は、カウディナ山道の跳び越えを、西欧革命によって相補われることなく、一国における勝利の方法に照らして行なったのである。理論と実践は必ずや一致しないこともある。マルクス主義の運用は書物から出発するのではなく、すべては実際から、国情から出発しなければならない。我々がマルクスのカウディナ山道跳び越えの構想を研究することは、学風の問題である。一体全体、単純にマルクス主義の書籍のなかの片言半句から答をみつけようとするのか、真にマルクス主義の立場、観点、方法を堅持しつつ現在の中国の現実問題を解決しようとするのか、と。
 興味深いといったのは、カウディナ山道をめぐる議論、東方社会理論には最初から理論的に無理があることを、認めているかのような議論をしているからである。この理論は、実践に要請された理論なのだから、初めから無理があるのだ。だが、国情を重んじるならば、それ以外の選択がない以上、これを何が何でも擁護しなければならない。無理でもこじつけよ。筆者には、まるでそのように言っているかのように見える。
 カウディナ山道の議論、東方社会理論に関する論文を40本ほど読んできたが、厳密なテキストクリティ―クにもとづいて論理を組み立てているものはほとんどない。
とくにカウディナ山道派、東方社会理論の支持者の議論は、いずれも極めて相似た論理展開、相似た記述内容に終始している。たぶん、テキストクリティークはどこかでなされているのかもしれないが、それを諸論文から窺うことはできない。

我々は、「ザスーリチの手紙への回答及び下書き」について、日南田静真、平田清明、福富正実、和田春樹、淡路憲治、若森章孝等による、厳密なテキストクリティークにもとづく論考を読むことができるし、その議論の妙を味わうことができる。けっしてないものねだりをしているわけではない。

 さて、これまで読んだカウディナ山道の議論、東方社会理論に関する諸論文から、以下のような感想を得ている。以下、字数の関係から、議論の呼称を東方社会理論に統一したい。
 まず、東方社会理論が、東方社会の独自性、後進性を認めることの意味についてである。
一般的な議論として、非ヨーロッパ世界の、ヨーロッパとは異なった独自性や、後進性を云々することは、いつの時代においても、可能であったであろう。だが、20世紀社会主義のマルクス主義歴史理論においては、そうではなかった。
はしょって言うと、マルクス主義の歴史理論は普遍的な理論である以上、それが通じなくなるような、独自性をもった地域、民族や国家があったりすることは許されなかった。
1949年以降の中国マルクス主義においても同様であった。中国のマルクス主義歴史家たちは、中国の歴史を普遍的な歴史法則を体現したものとして記述していた。特殊性や独自性に言及するとすれば、この普遍性の範囲内においてであった。ソ連や中国においてアジア的生産様式論が異端とされたのも、その支持者を見つけるのさえ困難であったのも、それゆえであった。
郭沫若や田昌五は、中国の歴史に対する異質性の押し付け、外部から中国史の異質性を指摘されることをつねに警戒していた。

だが、1989-1991年以降、状況は変わった。
ソ連・東欧社会主義圏の崩壊は、外部から中国の異質性を指摘し続けていた一方の勢力の消失を意味していた。
さらに、重要なことは、中国がその歴史や社会の独自性や特殊性を強調しなければならない状況に陥ったことであった。
1989年天安門事変以降、中国は世界の大勢に反して、20世紀社会主義を保持し続け、西欧諸国の人権問題をめぐる中国批判に晒されることになった。このような状況のなかで、党独裁を維持し、西欧諸国との経済交流を維持しなければならなかった。自らを納得させ、外部からの批判をかわすためにも、中国と外国(西欧)との差異、国情の違いを強調することが必要であった。かくしてカウディナ山道の議論が発見され、それを中核とした東方社会理論が誕生したのである。非ヨーロッパ世界の歴史の独自性は、マルクス主義の創始者たち自身がすでに認めているとの指摘は、中国のマルクス主義者およびそのイデオローグにとっては、まさに渡りに船であり、また大きな慰めでもあったであろう。
カウディナ山道をめぐる議論が、今日の中国ほど破格の扱いを受けている例はほかにない。カウディナ山道という言葉が一人歩きしている例もない。これまでの「ザスーリチの手紙への回答及び下書き」をめぐる中国以外のマルクス主義者の議論のなかで、カウディナ山道に注目した例を筆者は知らない。
少なくとも、上述の日南田静真以下若森章孝まで、いずれの論者もカウディナに関心を示していない。
 東方社会理論の理論的基礎は、究極には、アジア的生産様式論に求められるはずであった。だが、筆者のみるかぎり、アジア的生産様式論は、東方社会理論の下僕といった役回りを与えられているにすぎない。その関係をみると、カウディナ山道を冠した論文よりも東方社会理論と題した論文の方が、アジア的生産様式に言及する可能性がはるかに高く、また、いずれの側においても、1995年前後の論文の方が1997年以降の論文よりも、アジア的生産様式により多く言及しているといえそうである。そこから、1995年前後が、東方社会理論にとって重要な時期であったことが窺われる。おそらく、論者たちは、アジア的生産様式に言及することで、ロシアや中国など非ヨーロッパ社会(東方社会)の独自性が、1850年代以来、マルクスによって一貫して探求されてきたことを示すことによって、東方社会理論がたんなる間に合わせの理論ではないことを証明しようとしていたものと思われる。
 ついで、東方社会理論は、ロシア、中国がもともと遅れた社会であることを明示することによって、改革の困難さを強調し、それを無視したことが、多くの挫折につながったことを指摘している。これらの議論は、現在の改革は長期にわたるものであり、その過程においては、性急な政治改革は国情に合わない、つまり多党制とか西欧的な議会政治は時期尚早だと主張しているのだ。