金賢姫の手紙 (2)

本当に嘆かわしいことこの上ない放送3社の製作陣でした。疑問を提起した事項はすでに調査がなされ自分たちの放送ニュースや言論を通じて報道されたり、国家情報院がそれらの調査結果を資料として保管中のものなどでした。彼らは私の海外工作行程を追跡、取材し、あたかも新しく発見した途方もない事実のように今になって大げさに騒いでいました。

私が見るには、彼ら製作陣はすでに調査されている事実だとは分からないように疑惑事項を熱心に取材して放送していました。もし私が彼らの番組に出演したならば、まちがいなく私は「にせ物」にされてしまったことは明白でした。

そしてMBCとSBSは私の出演拒否が不満だったのか、私の居住地住民たちをインタビューし私の居住地を撮影して公開してしまいました。

国家情報院が私を自宅から追い出しながらも、放送3社を支援した番組の中身があのような「金賢姫金賢姫と安全企画部の失脚」だったという事実に、言葉を失いました。

MBCの番組が放送された次の日(11/19)にこのことを確認できることが起きました。
担当警察幹部が訪ねてきて、私に放送を見た感想を尋ねました。本当に火に油を注ぐ彼の破廉恥な行動に私は耐えることができなくて「殺して下さい」と大声を張り上げたし、彼はそのまま上部に報告すると言ってあわてて帰りました。

警察当局は数日前MBC取材記者らの襲撃を避けて、私を明け方3時に避難させておいて今になって彼らの放送の感想を尋ねにきたという事実により、彼らの図々しさと二重的処置を知ることができました。彼らが私を逃避させたことは彼らのあらかじめ計画された追い出し行為であったのです。

国家情報院と警察当局は、私が幼い子供らがいるからすぐに持ちこたえることができなくなって降参すると確信したのか、互いに代わりばんこで私を深いどん底に追い詰めました。彼らはすでに国家機関ではありませんでした。誰よりも法を厳格に遵守して執行しなければならない彼らの反理性的行為は、自ら国家機関であることを放棄するものでした。

そして、私は彼らから保護を受けるのではなく、すでにかなり以前から監視を受けていたことを悟ることになりました。その時から私は、国家情報院と警察当局、二つの公安当局と超緊張状態で対立し合う状況になりました。そして彼らの陰謀らが徐々に表面にあらわれ始めました。

  • 放送3社らの連係疑惑

私は現在まで国家情報院と対立し合っているなかで、最近担当官から「私たちはKAL機事件16周年をむかえて、放送各社の企画特集番組を支援しただけだ」という弁解を聞きました。

彼ら放送各社から「にせ物」にされてしまった被害当事者の私の立場で見れば、国家情報院は支援の水準を越え、ある政治的目的を持って番組を企画し、MBCを含んだ放送3社がその支援を受けて製作、編集するなど互いに連係して共謀したことはが明らかでした。

国家情報院が放送各社らと連係し共謀した理由として第1に、放送各社が少なくても数ヶ月多ければ1年近く多くの人的物的支援を投資し製作、編集した番組がそろって事件のねつ造疑惑を扱う内容の偏向的放送をしたという点です。 韓国を代表する公営放送にもかかわらず、偏向しないで公正に製作、放送をしたとは到底見ることはできなかったのです。

国家情報院が支援したという結果が約束でもしたように「安全企画部捜査がでたらめだった、金賢姫は嘘をついた」と糾弾する特集放送でした。本当に国家情報院は放送各社が製作、編集した番組の内容を放映以前に知らずにいたのでしょうか。放送各社が情報機関の捜査の疑惑を辛らつに批判報道しているのに国家情報院が中断要求もしないで、これを引き続き支援したことが私としては納得することはできなかったです。

二番目に放送各社らのねつ造疑惑提起に対して国家情報院は非常に消極的な態度で対応していたということです。国家情報院は私金賢姫とKAL機事件に関連して、膨大な量の捜査および情報資料を保管しています。それにもかかわらず、国家情報院の国内担当次長の朴丁三は「KAL機事件が南北の対決時代、冷戦時代の遺物だった」というあいまいな言葉だけを語りました。放送各社らが提起している古臭い疑惑に対して国家情報院は知らないふりをして捜査資料を意図的に提供しなかったのです。

いったい国家情報院が何を支援したのか、私としては分からなかったし理解できなかったのです。

MBCに出演した朴丁三は、真実ゲームの一つの側に立ってその真実ゲームを楽しみながらKAL機事件ねつ造疑惑を調整する実質的なプランナーでした。そうして放送各社は私とKAL機事件を否定的に描写するのに大部分の時間を割愛しました。

三つ目、放送各社はKAL機ねつ造疑惑の提起とともに私の居住地を撮影し放送して露出させてしまいました。 MBCは私の居住地を襲撃し、それでも足りなかったのか露出までさせました。 SBSもこれに負けないように何日後にまた再び露出させてしまいました。

放送各社は私が自分たちの要求に応じないといって無力な罪人をむやみに路上に投げ飛ばすことができるのですか。 国家情報院は放送各社の無謀な行為をただ眺めて沈黙しました。彼らを制裁したり抗議し調査したという話を私は今まで聞くことができませんでした。

これでも国家情報院は放送各社と共謀しなかったと言えますか。 本当に惨憺たる心情です。

四つ目、放送各社が事件当時の検察と安全企画部の捜査責任者らに対する取材活動をしなかったということです。放送各社は事件に対する各種の疑惑だけを提起し、そのような疑惑を最も速くて効率的、経済的に解決できる該当事件捜査の専門家かつ責任者らを取材から除きました。そして遺族らの絶叫場面とインタビュー場面を放送しつづけて、視聴者たちの感情を刺激するなど感性に訴えました。

放送各社は意図的に彼らを取材対象から除外させるほかなかったと思います。 なぜなら、彼らから事件取材意図に関して疑いをかけられることを恐れたためです。そして、国家情報院指揮部はその点を悩まないわけにはいかなかったでしょう。結果的に後任者らが前任者らを調査する形になるのです。

調査能力をまともに持たない放送各社の製作陣が捜査専門家たちを取材すれば事件疑惑が解消されてしまい、彼らの「疑惑の拡大強調」特集番組を放映することはできなかったでしょう。

最後に、国家情報院と放送各社は疑念に満ちたまなざしで無力な私だけ責め立てようとしました。私は安全企画部在職時、北朝鮮のニュースを伝える番組、MBCの「統一展望台」とKBSの「南北の窓」にしばしば出演して北朝鮮実状の情報を提供した事実があります。その当時放送各社の北韓局は開始初期なので今と違い北朝鮮関連情報が貧弱な状態でした。

私が北朝鮮で生まれて生活しなかったとすれば、放送各社にて北朝鮮社会の実状をどうして話せたでしょうか。社内で北韓局は教養製作局のねつ造疑惑の提起に対して何の反応を見せなかったです。二つの放送会社の教養製作局は私が北朝鮮人だということさえも疑惑の目で見ました。放送各社は私が「嘘をついている。毒薬アンプルをかむこともしなかった不道徳な女」と猛非難をして私をとても否定的に描写しました。
それが私に対する特集番組の結論でした。

図体が大きい放送各社が私ひとりに関して困惑する姿が真にあわれにさえ見えました。国家情報院と放送各社製作陣はテレビ画面の裏で軟弱な私に対して、私と視聴者たちをあざ笑ってばかにし陰謀を計画していました。

私は、歴史は彼らを絶対許さないだろうし必ず報いを受けるべきだと考えます。罪のない多くの生命を奪った航空機テロ事件を国家機関と公営放送機関が政治的に悪用したことについて彼らは責任を負わなければならないでしょう。

  • 放送各社の問題点

MBC、SBS、KBSなど放送3社の製作陣は1988年1月の安全企画部の捜査結果発表文に焦点を合わせて取材をし、疑惑を提起するのに余念がなかったです。彼らは捜査発表以後に、初動捜査での失敗や不十分な事項に関して調査が続けられ言論に報道された資料に顔を背け無視しました。これが彼らの最初の問題点です。

放送各社は、私の父、金ウォンソクが1987年当時アンゴラ駐在北朝鮮貿易代表部の首席代表として勤務していたという安全企画部の発表が、完全な偽りだと明らかになったと放送しました。

しかし、コンゴ駐在北朝鮮大使館の一等書記官として勤務し1995年3月亡命した高英煥氏は「当時金ウォンソク氏は対外経済事業部アンゴラ技術協力団代表であった」
「当時は外交官ではなかったが政府官僚であった」と「月刊朝鮮」2001年11月号で話しました。

果たして放送各社はこの記事を見なかったのでしょうか。 そして、私の父がキューバ駐在外交官として在職したという事実を証拠づける資料があるのにもかかわらず国家情報院は彼らにその資料を提供しなかったです。 それは外交的な問題が発生することを憂慮してのことでしょうか。

二番目、放送各社は私が北朝鮮人であるという事実が明らかになる場所に対しては、そろって取材することも言及することもありませんでした。

捜査結果発表資料に写真が大きく付けられている私の海外実習場所のマカオの居住地と居住生活、中国光州の居住地に対して放送3社が同じように見過ごすことはそんなに容易ではなかったでしょう。彼らはアジアの近いところを置いて、遠くヨーロッパと中東地域にまで行って私の行程を取材するのに多くの時間と経費を支払わなければなりませんでした。

三つ目、放送各社はある事項について事実と一致する部分と一致しない部分を全体的に取り上げ一致しない部分について疑惑提起をしなければなりませんでした。しかし、彼らは部分誤謬を犯し、その誤謬を無視しながら問題提起をしました。

放送各社は暗号手帳に記載されたブダペストの連絡先電話番号とベオグラード北朝鮮大使館の電話番号2つが幼稚園、化学工場の番号だとして疑惑を提起しました。しかし、すでに確認された2つの連絡先電話番号であるウィーン所在北朝鮮大使館とベオグラード所在の工作員アジトの番号に対しても言及しなければなりませんでした。 4つの電話番号うち2つは合っていて2つは一致しなかったことを視聴者たちに理解させなければなりませんでした。 視聴者たちは一致する2つの電話番号について全く知らされませんでした。

四つ目、放送各社は事件の事実関係全体を理解しようとせず、形式的であったり2次的な問題の言葉尻を捉えて疑惑を提起して事件全体を否定しようとしました。

彼らは、私が工作任務を与えられ「敵の背後に出発するときに誓った誓約文」の内容については無視したまま、文中の「キュユル(規律)」という語の綴りを取り上げ、北朝鮮では使わない綴りだと疑惑を提起し、発表翌日の某朝刊新聞では「キュリュル」と北朝鮮式に修正されて報道されたとして、ねつ造だと大騒ぎした。

しかし、彼らは私が工作員教育時に「以南化(韓国化)」教育を受けたという事実を全く取り上げませんでした。「以南化(韓国化)」教育は、韓国に浸透して任務を遂行する工作員の最も基本的な学習に属するものです。

その忠誠の誓約文は私が韓国の取り調べ室で韓国式綴字法に従って書いたので「キュユル」になったのです。綴りを変えて書いたといっても私としてはおかしくはありません。ひたすら疑惑提起者たちは「キュユル」綴りのために「忠誠誓約文」はなかったと主張しています。しかし、私は明らかに東北里招待所で誓約文を朗読しました。

そして、放送各社は花を渡す少女の写真の耳を問題視して食いついてきて、私が1972年11月南北調節委員会の会談の際、平壌近郊の力浦に臨時に用意された飛行場で花を渡す少女として参加したという陳述に対してはいかなる言及もしませんでした。
その当時与えられた父の職業など周辺状況に関する資料も国家情報院に保管されています。