金賢姫の手紙 (1)

救う会は、金賢姫が10月、李東馥北朝鮮民主化フォーラム常任代表に出した書簡を入手し、翻訳作業を進めていた。約2万6千字の長文ではあるが、貴重な資料なので全文を翻訳した。
これを読むと、
1, 大韓機爆破テロ事件をねつ造だとする韓国内の情報機関、テレビ局、市民団体の常軌を逸した活動と、
2. それにより金賢姫がいかに苦しめられてきたか、
3. いま、金賢姫がその実態を公開することで自分を苦しめた勢力に正面から対決している姿がよく分かる。

金賢姫が「大韓航空機爆破事件が金正日の直接の指示による国家テロだ」という真実を韓国社会に認めさせるために戦う姿勢を失っていない以上、近い将来、同じ金正日の指示による国家テロである拉致事件についても、新たな証言をしてくれる日が来ることはまちがいないだろう。
その際、田口八重子さんの家族との面会も実現することと期待する。

北朝鮮工作員金賢姫の書簡全訳》
   翻訳・西岡力


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李東馥北朝鮮民主化フォーラム常任代表様

この夏は本当に蒸し暑かったです。十月の終わりに吹く冷たい風は秋の気配をはっきりと感じさせます。

こんにちは。
私はKAL 858機爆破事件の張本人金賢姫です。私は代表に、1972年11月南北調節委員会の南側使節団として平壌に来られた時、花を渡す子どもとして参加して初めてお目にかかり、ソウルにきて代表が安全企画部特別補佐官としていらっしゃる時に二回目にお会いしました。代表と私とは特別なつながりを持っていますので、こちらから訪ねてごあいさつしなければならないのが当然な道理ですが、それができなくて申し訳ありません。

私は月刊誌やインターネットを通じて、代表が北朝鮮民主化のため活動される姿を見させていただきました。
最近、MBC番組「PD手帳」が放送した狂牛病問題に関連して記者会見をなさるなど代表の消息に接しています。

  • 手紙を書くことになった動機

私がここ韓国に定着して生活してすでに20年余りの歳月が経ちました。私は1997年12月に、それまでのすべての社会活動を完全に止めて結婚して二人の子供の母として平凡な生活をしてきました。
私は私のせいで深い心の傷を負った遺族の方たちがこれ以上、傷つくことがないように、世の中とは距離をおいて一日一日、懺悔しつつ静かに生きてきました。
しかし、5年前の2003年ごろ親北性向の政府ができてから、世の中は私を静かに放置してくれませんでした。KAL機事件のねつ造説と陰謀説がこれまでのどの時期よりも大きく提起され、MBCなど公営放送社がこれに便乗して,KAL機事件の実像を否定的に放送する残念な事態が発生しました。

私は代表が2003年11月、PD手帳「16年間の疑惑,KAL機爆破犯金賢姫の真実」を担当したMBC教養製作局崔震溶責任プロデューサーに送った手紙を読ませていただきました。

崔プロデューサーが「張基栄に花束を渡した少女が金賢姫ではないことに判明した」としたことに対する代表の丁重な反論でした。

そして、代表が2007年10月国家情報院の過去史委員会のKAL機事件調査結果発表に対して、「晩時之歎」とされた文章を読みました。
私は代表が、私とKAL機事件の実像を立証するために多くの努力をしてくださったことに対して感謝申し上げます。

しかし、親北左派らは代表の証言を拒否し、私は彼らから過去の政権の間ずっと「にせ物だ」「嘘をついている」として非難を受けなければならなかったし、国家情報院の過去史委員会からは十数回の調査要求を受けなければなりませんでした。

そして、MBCとSBSなどテレビ局製作陣らは私の家を襲撃して撮影したものを放送して露出させるかと思えば、国家情報院と警察当局は私と私の家族を自宅から追い出すという、本当有り得ないことが発生しました。
私はその時からいままで追い出され逃避生活をしてきました。事件の唯一の証人で当事者の私が体験しなければならなかった多くの苦難と、実際にその陰謀がどのように展開したのかに対する私の意見などを代表に詳細に申し上げて、御支援をいただきたくこの手紙を書かせていただきました。

  • 疑惑の事件

2003年10月になり、私の身辺でおかしなことが起きました。国家情報院の某職員から、国家情報院内部が騒々しいから外国に移民に行くことを勧められました。担当職員からは電話で数十回にわたってKAL機事件に関する質問を受けました。彼は私に痛恨の過去の記憶を思い出させました。私と関連して国家情報院の内部でなにかが起きているようでした。

そして、担当警察幹部からは、2年ほど他地域に居住してくれと要求されました。彼はその理由については何の話もしませんでした。

その年10月下旬頃、私の家の玄関に疑わしい二種類の外国産牛乳が配達され、その配達物は何日間かそのままその場に置かれたままでした。

その時期、KBS取材記者らが私の居住地周辺を何日の間徘徊して取材活動を熱心にしていました。しかし、私は国家情報院から彼らの取材活動について、事前に通報されませんでした。

その年11月上旬頃、カソリック司祭団115人が、一週間後にはカソリック神父202人が貞洞聖フランチェスカ会館で、KAL機事件ねつ造疑惑を提起して全面再調査と当時の安武赫安企部長、李相淵次長、鄭亨根捜査局長ら捜査責任者に対する調査を求める記者会見をしました。16年前の事件が本格的に水面の上に浮上し始めました。

このような周辺の状況で心が非常に不安定な時期に国家情報院担当官からMBCの番組「PD手帳」に出演してくれという要請を受けました。私は彼の求めを断りました。彼は再度、(国家情報院の)指揮部ですでに決めた事項であるからとその指示に従うことを強要してきました。しかし、私はこの指示を頑強に拒否し、それが大きい禍根になりました。

そうして11月中旬頃、この指示拒否のために私の夫が呼び出しされて京畿道盆唐の某食堂で国家情報院の担当幹部と職員に会うことになりました。その場で彼は私の公開出演は要求しないが、代わりに年末に庁舎内で天主教神父らと説明会を持つことに約束をしました。 私の公開問題はこれで決着したかのようでした。

しかし、私の夫が担当幹部に会っているまさにその時刻に、夜陰に乗じてカメラを持った記者数人が私の家を襲撃することが起きました。彼らは他でもないMBCのPD手帳の取材記者らでした。私としてはとても緊張し当惑するしかありませんでした。国家情報院は表で泰然として私に偽り約束をしながらから裏で攻撃をするのは、彼らの事業計画がかなり切迫したように見えました。

MBC記者らに襲撃された翌日の明け方、私は彼らに引き続き苦しめられることを考えて担当警察らと共に彼らの目を避けて幼い子供らを背負って、別の場所に逃避することになりました。ひどいことに夫が留守中である時に私の身辺に危ないことが起こりました。

私の家の周辺は蜂の巣をつついたように突然騒がしくなり、何日か後に今度はSBS取材記者らが私の家周辺を取材して回りました。

私はその時から今まで満5年の間、住み慣れた我が家に帰ることができなくなり、このように逃避生活をすることになるとは思ってもみなかったことです。そして、その期間に私はにせ物と烙印を押され、不道徳な女とされてしまいました。

ところで、私の身辺に対する一連の疑わしい事件がどのようにして起きたのか、その疑問を解くにはそんなに多くの時間は必要ありませんでした。

この一連の事件が「KAL機事件ねつ造疑惑」とかみ合わさり、その疑問を解く端緒になりました。

  • わたしを自宅から追い出した勢力

私に突然まき起こった一連のこの疑わしい事件は、私を精神的に肉体的にますます圧迫するための脅しのシグナルだということが分かったのです。

MBC取材記者に襲撃された翌日、私の臨時逃避場所の近くに尋ねてきた担当警察幹部は私の夫に「新聞をむやみに開いて読まず、牛乳のような配達物は気を付けなければならない。今回のことは鄭亨根議員を攻撃するためだ。某地域に二ヶ月程度、隠れ住んでくれるか」と求めました。

彼はこれほどの精神的、肉体的衝撃を与えたのだから私たちが彼らの要求を素直に受け入れると思ったようです。彼はMBC襲撃事件だけでなく自分の管轄区域内で起きている放送3社らの取材活動について、そしてこれから展開する事態についてよく知っているようでした。

そして、彼が帰った後、私が彼らの要求に同意するか悩むのに必要な何日の期間がまた流れました。今度は国家情報院担当官から私の夫に電話がかかってきました。彼は窮地に追い込まれた私に向かって、前回の約束とは関係なくMBC放送に出演するかインタビューを受けることを再度要求しました。ところで思いがけないことが起きました。この問題を論争する過程でMBCの襲撃事件はまさに国家情報院によって行われたことが暴露されました。

私の出演拒否によって国家情報院がかなり以前から企画し推進してきた事業計画に支障が生じたのが明らかに見えました。工作員の目ではその事業が「工作」であるということをすぐ識別することができました。

これにより、国家情報院が警察当局、放送各社と互いに連係して、工作事業を推進してきたことを知ることができました。私について国家情報院は情報管理を、警察当局は保安管理を各々分担して受け持っているから、私と関連した事業を推進するには彼らは互いの協力体系を構築しなければならないのです。例えば放送各社が国家情報院の黙認下に取材のため接近するのを、警察当局が積極的に対処して自分の職務に忠実だったとすれば、事がうまく進まなかったと思います。

国家情報院が中心になって、警察当局、韓国の主要放送社と連係して、巧妙に私と私の家族を自宅から追い出した本当悲しくあってはならないことが起きました。 それらの機関は皆、絶対互いに何の関連がないと開き直るでしょう。

私、金賢姫とKAL機事件について、約束でもしたように各局が偏向放送をするやりかたは、彼ら放送各社が公営放送の義務を果たさないまま「私たちは政権の宣伝扇動媒体に転落した」と自らが語ったものでした。

  • 表面に出てきた陰謀

カソリック神父らの二度の大規模な記者会見は一種の信号弾に過ぎませんでした。
KAL機事件の「ねつ造陰謀説」はMBC放送を最初にしていっせいに火ぶたを切りました。
砲撃の威力は本当にすごかったです。私を抱き込むのに失敗した国家情報院は、私および過去の安全企画部を政敵に設定して攻撃し始めました。

彼ら執権勢力は軍事政権下の情報機関である「安全企画部」と脱軍事政権下での情報機関である「国家情報院」を区分し、はっきり異なると認識しているようでした。

私は、国家情報院が自分のアイデンティティを忘却したまま、自身の前身である安全企画部を攻撃する凄惨な光景を目撃することになりました。彼らは「背後」で指揮し、自身の姿を隠したまま、放送、言論機関らを利用して宣伝させ、宗教・市民団体の「前衛」組織を動員してデモや扇動をさせるなど色々な戦術を繰り広げました。

私は彼らによって自宅から追い出された状態で、疑惑と威嚇が激しく降り注ぐ砲火の中を抜け出そうと必死の努力をしました。

放送3社は事件16周年を前後してMBCは「PD手帳」番組で、SBSは「それが知りたい」で、KBSは「日曜スペシャル」2部作で「金賢姫、彼女は誰か」、「16年間の疑惑と真実」、「金賢姫と金勝一、疑問の行程」などの題名で私、金賢姫の工作行程を中心に取材し放送しました。