在日コリアン人権運動の理論構築について(20)

第6章 具体的課題

6.1 運動体の財政確保―企業からの資金提供について―

 民族差別撤廃運動を展開し、闘争に勝利するには、当然のことながらそのための財源が必要である。組織構成員の会費で賄う場合もあるが、会費で事務所経費、人件費を賄うことはできない。たしかに民族差別撤廃運動に賛同する人々は少なくないが、個人で支出できる金額には限界がある。
 民族差別撤廃運動は、在日コリアンの人権擁護が目的であるが、それは民族差別があるからであり、民族差別を生起する主体は往々にして企業、行政である。民族差別を生起する企業、行政に責任がある以上、民族差別撤廃運動に対して企業、行政がそのペナルティとして相応の資金を提供することは当然として考えるべきである。
 しかし、日本社会ではいまだ、人権団体が差別した企業、行政から資金適用を受け取ることには、極めて強い抵抗がある。これは、水平社の時代の解決主義、即ち差別した側から解決金を得る手法が、後に濫用されたことと、今日のエセ同和行為によるものである。しかし、それは資金提供自体の批判というよりも、資金提供の方法論に問題があったというべきである。要は資金提供の理由と経緯、金額と使途の明細が全面的に公開されることによって完全な透明性が確保され、かつ説明責任が果たされることである。逆に公開性、透明性、説明責任が果たされないのであれば、資金的提供は受けるべきではない。
 たしかに、企業、行政から資金提供を受けることによって、当該企業、行政に対するその後の闘いに支障をきたすこと、あるいは資金提供が目的化することも可能性として否定できない。しかし、利潤追求を目的とする企業にとって、差別糾弾の結果、運動体に資金を提供せざるを得なくなることには少なからぬ抵抗があるため、逆にそれを教訓として企業にとって民族差別は、経営にマイナスとの印象を与えることとなる。そこにペナルティの効用性がある。
 企業にとって、民族差別は矛盾した概念である。差別は企業の社会責任の観点から許されない行為であるとの認識はある。しかし、いまだ民族差別が存在する以上、社員採用においては、日本人を優先する。社内の人事管理上同じ日本人同士のほうが、より管理しやすいと考える結果である。また、取引相手や顧客が必ずしも民族差別意識をもっていないとは限らない。そのため、リスクを軽減する上でも、在日コリアンより日本人を優先するのである。少数者の人権より多数者の顧客を大事にすることが、経営上有利であると考える企業がいまだ大半である。
 だからこそ闘いが必要なのであり、啓発で企業のこのような姿勢が一夜にして変化するなどありえない。闘いは相手が、民族差別の再発を自ら戒めるほどに脅威を感じさせなければ意味がないのである。その意味において、差別企業からの資金提供は、多額であればあるほど効果がある。
 また、人権運動体がこのようないかなる場合でも、金銭にかかわるべきではないとする考えが支配的であるのも事実である。そのような考えが生まれたのは、同和事業の経緯に発端が求められる。大阪では、同和事業は当初、部落解放同盟の各支部が直接執行していた。行政の同和事業が運動体である部落解放同盟支部に委託され、支部が事業を執行していたのである。しかし、後に特定団体に行政事業を委託することが議会で問題にさたことから、部落解放同盟支部とは別に、行政、有識者を交えた事業団体を設置し、同和事業は行政の外郭団体としての事業団体を通じて執行するという方式をとったのである。いわゆる運動と事業の分離である。しかし、これはあくまでも、事業を迂回し、形式上外郭団体を通しただけのことであり、実質的には、部落解放同盟が事業団体のイニシアティブを掌握し続けたのである。しかし、後にこのことが、拡大解釈され、運動体が金を扱うべきではないことがあたかも運動原則のように拡散したのである。この迂回方式は運動財源が組織大衆に見えず、また公開もされないことから、組織のもうひとつの裏の財源となり、後に「不祥事」の原因となった。このような経緯を改めて検証し、組織財源は組織の構成員に全面公開すべきとの原則に立てば、むしろ迂回方式という手法ではなく、企業、行政からのあらゆる資金は、運動体が直接これを管理し、そのつど公開する手法に転換すべきである。問題のポイントは、全面的な情報公開と、意見の違いについては公の場での討論に委ねること。この2点である。
 要するに、企業からの資金提供は、マイナス面の可能性もあるが、しかし、それは闘う側の姿勢の問題であって、仮に反社会的な行為を繰り返す運動体であれば早晩その運動体は信頼を失い、従って運動体足りえなくなる。つまり社会的に淘汰されるのである。暴力団がエセ行為を行っているとしても、それは全く別の問題であって、論外というべきである。
 結論として、企業からの資金提供は、それが社会貢献としての寄付であれ、差別したペナルティであれ、マイナス面を補ってもなお民族差別撤廃運動には有効であると考えるべきである。要は完全な透明性の確保、説明責任、それに第三者監査の有無である。

6.2 専従者の給与及び待遇について
 一般的に社会運動の専従者の社会的地位と待遇は低い。特に人権運動の専従者の社会的地位と待遇はさらに低いと思われる。これは先に人権運動で給与を得ることに暗いイメージがつきまとうからである。このことが運動の人材不足を招く最大の要因となっている。その解決には組織の財源確保が前提となるが、しかし、仮に財源が満たされていたとしても、年齢に応じた社会的平均給与を支給することに躊躇する団体が多い。組織内外からの批判を回避しようとするからである。「清く貧しく」あるべきとの風潮がいまだ存在するからであるが、そのことによって、多くの活動家が30歳代を前に、専従者を退職する傾向にある。そのため、運動体にせっかく培われたノウハウが蓄積されず、運動の発展が阻害される結果となる。
 また、30歳代を越えてもなお専従者を継続する場合、生活に必要な給与を表向きに支給できないことから、裏会計で操作するか、あるいは本来組織に納入すべき金を、個人の収入に繰り入れ、またそのことを組織として黙認する手法が広く取られてきた。むしろこのような公開されない手法が、長年の間行われることによって、不祥事を招く原因となり、却って組織に対する内外の信頼を失う結果となる。
 部落解放同盟にかかわる「不祥事」もこの専従者の待遇が原因の一つとなっている。要するに、人権運動体が専従者の待遇に関して、余りにも無関心なのである。仮に専従者の待遇が、厚遇であるとの批判が出れば、公の場で何をもって厚遇とするのか、また待遇のあり方はいかにあるべきか議論によって解決すべきである。
 ところが、専従者の待遇に限らず、人権運動は往々にして、金の問題の議論を避ける傾向にある。特に給与の問題を自ら語ることは、信用を失うとの風潮が支配しているのである。そのため、給与の問題は、常に迂回した議論、即ち結論として給与を上げる結果を導くように全体的課題を提起し、そこから給与を上げざるを得ない空気を組織内に醸成するといった腹芸的手法がとられる。実際の議論は裏で行われ、決定する。このようないわば、日本の運動体の伝統的手法が、往々にして混乱の元ともなる。
 専従者であれ、人間である以上、人並みの生活は保障されなければならず、それは組織の責任でもある。適切な私的欲求は公然と認められなければならない。そのような作風を、人権運動体の中に確立しなければ、優秀な人材を確保することは不可能であり、それは人材が命である人権運動体にとって早急に実現しなければならない課題である。

6.3 マイノリティ運動の横の連携の可能性
 日本のマイノリティ運動は、互いに連携する機会は極めて少ない。部落解放同盟以外のマイノリティ運動体の大多数は、小規模であるため闘いに限界がある。横の連携を図ることによって、一つの団体では不可能な闘争も可能になるケースもあるはずである。にもかかわらず、連携が進まないのは、日本の人権行政が特異な形で始められたことによる。同対審答申とこれを受けて制定された同和対策特別措置法(以下特措法)である。
 1964年に制定された米国の公民権法は、黒人差別撤廃運動によるものであるが、制定された法律は、黒人差別に限らず、あらゆる差別を対象とした。また、公民権法が対象とする差別の分類は、黒人、ヒスパニックという個別の属性による縦型ではなく、人種による差別、皮膚の色による差別として横型の分類となっている。その他にも出身地による差別、性による差別となっている。対して日本の人権行政は、部落差別、女性差別、ウタリ差別等全て縦型である。特に同和問題が法律上突出して制定されたため、マイノリティ運動が企業、行政と交渉する場合、部落問題は別扱いに位置づけられていりことから横の連携が困難であった。特措法制定の時、政府は米国とは逆に、部落問題に対する特別措置が他のマイノリティにまで波及しないよう、部落問題に限定するために、はじめから縦型のシステムにしたのである。これが、運動体同士の連携を困難にし、また部落解放同盟の反差別共同闘争が、同和偏重の批判をかわすことを目的にした、形式だけの共闘に終わり、近年にいたっては、他のマイノリティに介入するといった弊害を招く原因となったのである。
 同対法が失効して、これからマイノリティ運動の連携の可能性が生じる時期を迎えたが、今日においては、部落解放同盟の一部幹部と官僚によるマイノリティ運動の一極支配、管理という新たな動きが生まれており、連携は必ずしも容易ではない。
 しかし、人権が国際的脇組みの中で推移する時代にあって、このような事態がいつまでも続くこともまた困難であろう。肝要なことは、マイノリティ運動の中で、多文化共生論のまやかしを理論的に暴露し、公然と議論することである。