在日コリアン人権運動の理論構築について(19)

5.2 多文化共生論の登場
 多文化共生は当初、共生という単独用語で使用され、主として生物学の用語として存在していた。1980年代から外国人労働者受け入れ問題の議論を契機に、社会問題において使われ始め、その後マイノリティ問題全般に広がった。新聞紙上に登場する共生は次のように増加してきた。

 1970年代  4件
 1989年  35件
 1992年 198件
 1995年 318件
 1996年 299件
 1997年 299件

 共生は、外国人労働者が日本に定着し、日本社会と融合するために必要な概念として、社会と人間の関係において、使用され始めた。外国人労働者の移入問題は産業界にとって、焦眉の課題であったのだ。
 他方、人権運動の世界では、1982年第8回民闘連全国交流集会(尼崎)で、「共に生き、共に闘う新たな展望をきりひらこう」とのテーマを設定し、その下に「共闘、共生、共感」というサブタイトルをつけた。恐らく人権運動の世界で公の共生を謳ったのは、これがはじめてのことであろう。当時、集会のテーマを決定する代表者会議で共生とは何の意味かとの質問が出て、これに提案者が説明をするといった光景が見られた時代である。1985年、指紋押捺拒否運動が最高潮に達した時、日本で生きる在日朝鮮人指紋押捺を課すことの理不尽さを訴えるフレーズとして、「共に生きる日本社会」というスローガンが、これも民闘連を中心に頻繁に使用された。同時期に発刊された指紋押捺拒否者の声を収録した「日本人へのラブコール」という題名の本も出版された。人権運動で共生が急激に使用され始めたのは、このころからである。
 民闘連が在日朝鮮人運動で初めて、共生を使用したのは、既成の民族団体が、在日朝鮮人を本国と一体化させ、日本社会へのかかわりを否定してきたことに対するアンチテーゼであった。当然のこととして、民闘連が共生を謳ったことに対して、在日朝鮮人団体や個人から厳しい反発が寄せられた。特に「日本人へのラブコール」は指紋押捺拒否裁判を先頭に立って闘った金敬得でさえ、「同胞の側からラブコールを送るのは理解できない。気持ちの悪い言葉だ」と痛烈に批判した。
 民闘連第3世代といわれる若者たちが、民闘連運動に参加し始めたのも、指紋押捺拒否運動からである。彼(女)らが民闘連に参加したとき、すでに共生は民闘連運動のキャッチフレーズとなっていた。彼(女)らにとって共生は、祖国志向論に対するアンチテーゼではなく、民族差別撤廃運動の基本路線であり、それ以外の何者でもなかった。当然のこととして、警戒心どころか、金敬得が発した批判の意味さえ理解できていなかった。この世代が後に、多文化共生論の虜となり、民族差別撤廃運動そのものまで否定するようになるのである。
 民闘連が祖国志向論に対するアンチテーゼとして使用し始めた共生は、民闘連の真意とは全く別の世界で急激に膨張し始めた。企業、行政がこれをいち早く取り入れ、瞬く間に日本社会に充満したのである。1995年在日コリアン人権協会結成記念会の席上、当時会長を務めた私が、主催者挨拶の中で、共生の時代という表現を使用したことを取り上げて、出席していた銀行の人権担当者が私に「まさに会長のおっしゃるとおりです。これからは対立や闘いではなく、共生の時代です、実に感銘しました。」と、感想を述べていた。こんな勘違いをする者もいるのかと、当時はさして気に留めなかった。しかし、すでにそのころ、企業、行政は共生に向かって大きくシフトし始めていたのである。立場が変われば、捉え方も当然変わるのであり、巨大な組織力を背景とした宣伝力によって、共生は企業、行政にとって都合の良い解釈、即ち「対立から調和へ」という意味の用語として社会に広まっていった。
 日立闘争から25年、地を這うようにして闘ってきた民闘連運動が、祖国志向論との論争を経て到達した地平を表す言葉として使用し始めた共生は、在日朝鮮人を翻弄してきた国家によって、ものの見事に絡めとられてしまったのである。より深刻なのは、言葉の意味を変えられただけではなく、民闘連の仲間や、若い世代のメンタリティまでをも変えられてしまい、果ては組織の分裂・縮小にまで至ったことである。国家による共生の目論見は、皮肉にも共生を最初に導入した民闘連運動において初の成功を収めたのである。

5.4 多文化共生の背景と本質
 共生は在日朝鮮人問題では多文化共生として登場する。1990年代から急激に日本社会を席巻してきた背景と本質は次のとおりである。
 1970年代に始まった民族差別撤廃運動は、指紋押捺制度を廃止するなど、日本の外国人政策をも揺るがす事態を招いた。同じ時期、外国人労働者移入が焦眉の課題として、経済界から提起され始めた。想定される外国人労働者の移入は、将来的に在日朝鮮人60万をはるかに越える人員となるのは必至である。在日朝鮮人が展開した民族差別撤廃運動のうねりが外国人労働者にまで広がらないという保障はない。政府として将来予想されるであろう外国人による権利闘争による社会不安を未然に防ぐこと、さらに日本人市民がこれに同調しないよう対策を講じることが急務の課題となっていた。
 また、外国人問題に限らず、障害者、ジェンダーその他のマイノリティ運動に対する抜本的な対策をこの際講じる必要性に迫られていた。総じて、日本のマイノリティ運動に対する国家としての抑止政策が求められていたのである。
 その中でも特に外国人問題は、絶対的条件としての天皇制維持の観点から困難な問題を生じる可能性がある。特に旧植民地出身者である朝鮮半島出身者や台湾出身者については、歴史的経緯の問題があり、また中国人に関しては、個人に対する戦後賠償責任が未解決という課題もある。これらの外国人は歴史的経緯から他の外国人に比較して反日意識が強く、天皇制維持の観点から特に注視する必要がある。これら歴史的経緯のある外国人が核となって、将来予想される大量の外国人労働者と連携して人権運動を闘うことは、人権にとどまらず、日本の国体そのものを脅かす可能性があり、なんとしてでもこれを未然に防止する必要がある。
 そのためには、過去の日本帝国主義がとった同化政策をモデルとした多文化共生論を導入し、安定した在日外国人管理に資することとしたのである。その中でも特に、旧植民地出身者である、朝鮮人及び台湾人については、長年にわたる居住性と世代交代にかんがみ、この際日本国籍を付与して同化をさらに促進する。その他の外国人については、従前の在日朝鮮人政策がそうであったように、外国人としての管理を強化する一方、異文化交流を通じて社会に融合させ、地域社会ぐるみで抵抗運動を困難とする環境を醸成することとしたのである。

5.3 他のマイノリティにも浸透する共生
 共生に対してマイノリティの側からのすでにいくつかの反発が出現している。男女共生に対しては以下の批判がある。
 「このごろよく見聞きする『男女共生』とか『男女の共生を考える』という言葉に抵抗を感じる。この言葉の登場とともに『男女平等』『女性差別』という言葉が使われなくなり、いまだ厳然と存在する差別が、隠されてしまっているように思う。・・・・賃金差別、教育の中の差別、根強い性別役割分業感、慣習の中での差別、アジアの女性への差別、性的いやがらせ等、女性差別はなくなっていない。・・・・それなのに、この『共生』という言葉は、平等がすでに達成されたかのようなイメージを作り、差別克服への視点、姿勢をあいまいにさせる。『男だって大変なんだ。この大変な時代に、男だ女だとこだわらずに仲良くやっていこう。共生を考えよう』という文脈で使われ、女性差別が見えにくくなっているのである。・・・・片方の性を差別したままの『共生』はありえない。現に存在する差別をきびしく見つめ、解決へ向けての具体的な施策をもった『共生』論議であるよう、国や自治体に強く要望したい。」(「朝日新聞」1992年6月20日朝刊)
 共生とはなんとも心地よい言葉である。しかし、誰にとって心地よく、また誰にとって都合が良く、誰にとって不利であるのか、この批判は鋭く問う。共生が現存する課題である賃金差別、分業差別等がすでに解消してしまったかのような空気をかもし出すことに当事者は警戒感を緩めない。
 「障害者と健常者との共生」という言葉も使われる。障害者に対する処遇は、1970年代までは「保護と隔離」であったが、「地域であたりまえに生きる」ことをめざして1980年代以降「共生共育」「統合教育」の理念が発展してきた。この理念はノーマライゼーションの思想に基づくものである。1950年代北欧・デンマークで登場したノーマライゼーションは、障害者が障害をもったまま通常の生活を送り、全ての人が共に生きられる社会こそがノーマルな社会であり、そのための環境づくりを求める社会変革の思想である。ノーマライゼーションの思想に基づく施策は「国連障害者の10年」へと展開された。こうして「個人の属性」として捉えられていた見方から、障害を「個人と環境との関係」として捉える見方へ大きく変革された。
 ところが、この思想が日本政府の障害者白書(1995年版 総理府)では、大きく変貌する。白書ではまず「一般の人と同じ欲求・権利を持つ仲間であるという共生の障害者観」が定着しつつあるとした上で、次のような評価を述べる。
 「・・・・『共生』の考え方を更に一歩進めたのが、『障害は個性』という障害者観である。・・・・我々のなかには気の強い人も弱い人もいる。それで世の中をふたつに分けたりはしない。障害も各人が持っている個性の一つととらえると、障害の有無で世の中を二分する必要はなくなる。」

 明らかにノーマライゼーションの思想とは異なっている。当然障害者からは批判が投げかえられる。以下当事者の批判を紹介する。
 「冗談ではない。障害を気の強い弱いといったことと混同して欲しくない。だいいち、気が弱いとか強いとかいったことで就職で差別されることがあるだろうか。社会的な不利益が厳然としてあるからこそ障害者なのではないか。・・・・私は障害者手帳2級の聴覚障害者である。これまでの人生経験からしても障害は「個性」というようなきれいな言葉で置き換えられるような生易しいものではない。障害のある人とそうでない人の違いをことさら強調することがよいとは思わないが、「個性」というような言葉で片付けるのは、障害者問題の厳しさから目をそらさせる効果しかないのではないか。」(「朝日新聞1996年1月19日朝刊」)
 極めて明快であり、差別を受けてきた当事者の目線で、総理府の目論見を鋭く論破している。社会的較差、差別を個性で片付けようとする国家の真意が読み取れる。1970年代から営々と闘ってきた障害者運動が獲得してきた社会変革の思想を、共生という言葉によって、障害を個性に矮小化し、障害者が地域で普通に生きられる環境づくりのための施策が、あたかも必要でないかのような空気をかもし出すのである。
 このように、1980年代から共生は在日朝鮮人に限らず、他のマイノリティの世界にも浸透しているのである。