在日コリアン人権運動の理論構築について(15)

4.6 在日朝鮮人日本国籍を取得する意義
ア.生きる権利は国籍に優先する
 長い間、在日朝鮮人にとって韓国籍朝鮮籍は民族の証であった。換言すれば、韓国、北朝鮮の国民であることが朝鮮民族であることの証であり、国家と民族は分かちがたく結びついていた。帰化日本国籍取得)は民族に対する裏切り行為であり、帰化した者は日本人以上に軽蔑すべき対象であった。そのため、帰化する者は裏切り行為と罵られることを覚悟した上で帰化を決断せざるを得なかった。
 では、何故そこまでして、帰化したのか。同胞社会から排斥されてまで帰化を決意させたのは、生活のためであった。下請け企業の在日朝鮮人が、日本人の元受会社から支援する候補者への投票を依頼される。候補者は、業界団体の利益を代弁するため、業界を挙げて応援する。誰も趣味で選挙運動をしているわけではない。生きるための闘争なのだ。しかし、民族的偏見に加えて、投票権のない在日朝鮮人企業者は、業界の中の競争において、不利な立場におかれる。余裕があるときならまだしも、不況で仕事を奪い合う状況であれば、企業の生死がかかる。競争に負けることは、倒産を意味し、家族、従業員は路頭に迷う結果となる。就職差別の結果として、自営業者の多い在日朝鮮人は、日本人以上に深刻だ。一生懸命に勉強して、裁判官や警察官になりたいと夢を見る在日朝鮮人の子どももいる。日本で生まれ育って、日本人の友達と机を並べて学んできたのに、いくら努力しても夢がかなえられない状況を納得させることができるだろうか。このように、在日朝鮮人は、日本国籍を持たないために、長い間生きる権利を奪われ、より良い生活への希望を打ち砕かれ、自己実現への道を閉ざされてきたのである。朝鮮半島の国家がいつか統一されて、自分たちの夢をかなえてくれるとの希望は、とうの昔、幻想に終わった。本国の国籍が民族の証と信じて守ってきたのは、本国への期待の裏返しであり、期待が幻想に終わった以上、もはや本国の国籍を維持する必然性はない。祖国のために、というスローガンには、祖国が在日朝鮮人のために貢献することが前提条件だ。そのような暗黙の契約関係は、もはや無効となった。
 在日朝鮮人にとって、日本国籍の取得とは、まず日本に生まれ育った在日世代が隣の日本人と変わらぬ普通の夢を実現するためのパスポートである。確かに、一世の時代とは異なる、国籍条項の多くが撤廃されてはきたが、しかし、それは外国人でも可能であるとの社会的共通認識の範疇内に限定されており、外交官、国会議員等の国籍条項は、いまだ議論の俎上にすらのっていない。在日二世にとって、これまで撤廃された国籍条項は「もはや制度上の差別の大半はなくなった」と隔世の感を与えるものであったが、3世、4世にとっては、ごく一部としか映らないのである。時代の変化は在日朝鮮人の権利意識をも向上させてきたのであり、従来の国籍条項撤廃の成果は、今日においては「たったそれだけ」のものでしかないのである。
 在日朝鮮人にとっての日本国籍とは、今日あって当たり前の権利であり、それを取得するに躊躇すべき障害も存在しない時代に到達したのである。
 
イ.普遍的原理としての国家・国籍選択
 ヒトやモノの国際化が急激に進展し、国境の壁が低くなってきた。日本国内においては、民族差別撤廃運動の成果とあいまって、国籍概念が拡大され、日本国籍者に限定されていた数々の制度が在日朝鮮人に開放されてきた。国民健康保険国民年金が外国人に適用されてすでに20年以上が経過しているのである。国籍が相対化される時代が到来したのである。国籍は国家の占有物ではなく、個人がその生き方に応じて選択し、変更する道具なのである。国家が個人を選択するのではなく、個人が国家を、そして国籍を選択するのである。1948年12月10日国連第3回総会において採択された「世界人権宣言」は第13条(移転と居住)で「すべて人は、自国その他いずれの国をも立ち去り、及び自国に帰る権利を有する。」と定めている。また第15条(国籍)では、「何人も。ほしいままにその国籍を奪われ、又はその国籍を変更する権利を否認されることはない。」と謳う。個人が国家、国籍を選択する自由を有するとの原則がすでに60年前から存在しているのであり、在日朝鮮人が国家、国籍を選択することは普遍的原理に基づく権利である。
ウ.奴隷状態からの解放
 在日朝鮮人は、日本政府から支配されると共に、韓国、北朝鮮からも間接的支配を受けてきた。しかし、これら支配に対して、在日朝鮮人は何らの影響力をも行使するすべを保持してこなかった。自らを支配する国家において、参政権を保持していないのである。まさに奴隷状態に置かれてきたのである。20世紀から21世紀に欠けて、議会制国家に生まれ育ちながら、一度も選挙権を行使することなく、人生を終えた人々が大量に存在すること事態極めて異常というほかない。
 日本国籍取得反対論者は在日朝鮮人日本国籍を取得すると分裂状態を招くと主張する。しかし、三つの国家から翻弄され、奴隷状態に置かれていることこそが、分裂の本質なのである。在日朝鮮人にとっての、日本国籍取得とは、不毛な分裂からの脱却を通じて、奴隷状態からの解放をもたらす道となる。
 
エ.在日朝鮮人のアイデンティティと人権を獲得する機能としての日本国籍
 日本国籍反対論者は、「民族差別を緩和する具体的処方箋をもたないまま国籍取得特例法を受け入れることは、在日コリアンの自然消滅の流れを加速するだけである」(朴一在日朝鮮人コリアンってなんでんねん?』102項)と主張する。「処方箋(差別規制の諸制度)をもつ」ことが何を意味するのか。あらかじめそのような方針を在日朝鮮人が準備するということなのか、それとも処方箋とセットにした法律でなければならないという意味なのか、定かではないが、処方箋はこれまで繰り返し、在日朝鮮人の運動体が主張してきたので、後者の意味であろう。
 このような朴一の主張は反対論者にほぼ共通している。問題は国籍と処方箋の関係である。確かに、国籍を取得したからといって、即座に差別がなくなるわけではない。しかし国籍は処方箋を獲得するための武器としての機能を果たすのである。武器は使わなければ何らの意味ももたない。1970年代後期から80年代にかけて、国籍条項が次々と撤廃されたのは、国際人権規約、国連難民条約が批准されたからではない。それ以前に民族差別撤廃運動の闘いがあり、世論に追い詰められた政府がこれら人権諸条約の批准を余儀なくされ、国家の体面を保つために条約に従う形で撤廃したのである。要は、闘いであり、在日朝鮮人の能動的姿勢である。反対論者にほぼ共通するもうひとつの点、それは民族差別撤廃運動の経験がないか、あるいは民族差別撤廃運動そのものに否定的な立場をとってきたことである。1985年指紋押捺拒否運動が最も高揚したときでさえ、この運動に参加しなかったのは総連と韓国民主化運動の活動家たちであった。ところが、これらの人たちが、後に大学教授や著述業になり、日本国籍反対論を活字にして発表したため、勢い日祖国統一、韓国民主化を叫び、民族差別撤廃運動が同化への道であると批判してきた人たちが、今度は日本国籍取得を同化であると批判し、韓国籍朝鮮籍保持を主張するのである。在日朝鮮人の知識人がいかに同胞大衆の現実に疎く、また祖国志向論・国家主義にいかに深く囚われているかを垣間見る思いである。その意味において、在日朝鮮人知識人の責任は重いといわなければならない。
 在日朝鮮人日本国籍を取得すれば、国政を含めた参政権を得ることができる。これに付随した公的権利(公務員就任権、人権擁護委員、民生委員等)も得られる。参政権が得られれば、代表を議会に送ることが可能となる。地方においては、人口が少数のため同胞の代表を議会に選出できないとしても、多くの日本人議員や首長は、有権者たる在日朝鮮人の存在を意識せざるをえなくなる。市会議員ともなると、10票単位で勝敗が決まることは日常茶飯事である。在日朝鮮人の数世帯が一人の市会議員の勝敗を左右し、議会で同胞の権利を主張させることも十分可能なのである。私は、民族差別撤廃運動の中で行政との闘いを展開してきたが、最後の部分で参政権がないため、議会の承認が得られず、涙を飲んだことが度々あった。そのつど、日本人の議員に陳情するのだが、一から在日朝鮮人問題を説明しなければならなかった。聞いてくれる議員の中でも理解する議員はごく稀であり、何度も口惜しい経験をしてきた。在日朝鮮人が行政に対して施策を実現させるには、日本人よりはるかに多大な労力を必要とする。また、通常議員は有権者からの陳情は、丁寧に対応するが、選挙権のない在日朝鮮人の陳情に対しては、いかにも尊大に対応するか、あるいは丁寧に対応しても、陳情事項は適当に放置するのが常である。議員が選挙で選出される以上やむをえないことでもある。選挙権のない在日朝鮮人は、いかに外国人も住民であると主張したところで、それはあくまでも2級の住民でしかないのである。選挙権のない住民は、行政からも議会からも「見えない存在」でありつづけるしかない。
 在日朝鮮人が民族文化、民族教育の行政保障を要求する場合、外国人の立場と日本国民の立場とでは、世論に対する影響力が大きく異なる。本来はどちらの立場であれ、日本に住み、義務を果たしている以上、同じ目線で見るべきであるが、現実はそこまで到達するには国民国家の崩壊を待つしかない。現実の世界では世論の、それも比較的在日朝鮮人を理解する世論であっても、同じ国民の立場からの要求には、まずは耳を傾ける姿勢がある。反対論者は、このような主張こそ国家主義と批判するのであるが、それは問題の立て方の違いであり、まず同胞大衆の生活要求の実現が優先されるべきであり、国籍を超えたグローバルな社会の創造は、具体的な成果の積み重ねの中でこそ可能となるのである。
 民族として生きる環境は、日本国籍を取得して闘うことによって可能となる。また日本国民という明確な立場が在日朝鮮人のアイデンティティを確立させる。日本と朝鮮半島の中間的存在という不安定さの中にアイデンティティを見出そうとして苦悩する状態から、日本社会の確固とした一員として、かつ在日朝鮮人という朝鮮半島の同胞とも異なる独自の歴史を有する存在としてのアイデンティティが確立されるのである。アイデンティティは必ずしもひとつに統合されるべきものではない。人間も国家も常に複数のアイデンティティを有しているのであり、それを認めることが社会の調和を可能ならしめるのである。朝鮮民族というアイデンティティと日本国民というアイデンティティは矛盾することなく調和しうる。在日世代は、これまで生活実態及び感性と国籍の間に矛盾が存在していたため、アイデンティティの確立に悩まざるを得なかった。日本国籍取得はこれを一致させることを可能とする道を開くのである。
 また反対論者は、日本国籍を取得することが民族のアイデンティティを崩壊させ、同化につながると主張する。しかし、これは少なくとも人権の国際化時代にあっては、全く逆のことを意味する。国際人権規約B規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)第27条(少数民族の保護)は少数民族の文化について次のように定めている。「種族的、宗教的又は言語的少数民族が存在する国において、当該少数民族に属する者は、その集団の他の構成員とともに自己の文化を享有し、自己の宗教を振興しかつ実践し又は自己の言語を使用する権利を否定されない。」。在日コリアンが日本の国民的少数者、即ち少数民族となることは、むしろ自己の文化、アイデンティティを保持しうる権利を国際的に保障されることとなるのである。