在日コリアン人権運動の理論構築について(13)

第4章 在日コリアン人権運動の停滞要因
4.1 参政権運動と日本国籍
 1970年に始まった民族差別撤廃運動は、1985年指紋押捺拒否運動から1991年日韓協議に向けて、最も高揚した。その後、参政権運動が本格的に展開され。1995年2月最高裁が在日外国人の地方参政権憲法上容認されるとの判決を下したことが追い風となり、参政権運動は飛躍的に拡大した。判決を前にした1984年の世論調査では、定住外国人地方参政権を与えることに賛成の意見が反対意見を上回った。定住外国人地方参政権を与えるための法改正を求める自治体決議は、最高裁判決前は約200だったが、判決翌年の1996年5月には1200を超える勢いに迫った(2004年11月段階で1520)。国会議員のアンケートにおいても、89パーセントが、地方参政権を与えてよいとする意見だった(朝日新聞1996年1月17日)。
 新たな裁判闘争も開始された。1995年の最高裁判決は定住外国人に対する地方参政権の付与が憲法上認められると判断する一方、立法措置については国の裁量権に委ねられた。これを受けて、国が定住外国人参政権を付与するための立法措置を怠ったことに対する損害賠償を求める集団訴訟が大阪で起こされた。これは私自身が呼びかけて、事務局も在日コリアン人権協会が担った。1998年大阪高裁で下された判決は、1審同様棄却であったが、しかし、地方参政権のうち被選挙権も憲法上容認されるという初の判断を引き出した。これによって、定住外国人参政権は選挙権、被選挙権ともに憲法上容認されるとの判断がそろった。残るは立法府の判断である。
 1998年10月民主、公明両党が共同で始めて「永住外国人地方選挙権付与法案」を国会に提出した。さらに1999年10月自民、自由、公明の3党連立政権が発足するにあたって、公明党の要望で政策協定に地方参政権付与法案の成立が盛り込まれた。法案は計4回にわたって国会に提出されたが、自民党内の意見がまとまらないため、いまだ成立を見ていない。
 そのような中、2001年政府与党に「国籍等に関するプロジェクトチーム」が、結成され「特別永住者等の国籍取得の特例に関する法律案(以下国籍取得特例法案)」が発表された。この法案は在日朝鮮人団体に強烈な衝撃を与えた。従来の帰化制度とは全く異なるものであり、言い換えれば帰化制度の不十分点を、ほぼクリアした内容となっているからである。これに対して、総連は、従来の見解を踏襲し、同化を促進するものとして反対の立場を明確にした。参政権運動の主流を担ってきた民団は明確な見解を表明できず、内部の混乱を露呈した。その他の団体の大半は、一様ではないにしても、基本的には反対の立場を表明した。しかし、反対意見のいずれも在日朝鮮人大衆にとって、また一般の日本人にとっても分かりづらいものであった。
 政府与党の狙いが、参政権運動に対抗する手段として国籍取得特例法案を提案したとの受け止めたことが反対の主な理由であった。しかし、法案の中身である、日本国籍の取得そのものについては、いずれの団体も明確な見解を明らかにできなかった。小泉訪朝を契機とした北朝鮮による拉致問題の発覚から、北朝鮮パッシングが始まったこととあいまって、この法案の発表以降、参政権運動は停滞し始めた。

4.2 日本国籍取得論の経緯
 在日朝鮮人の国籍は、韓国併合(1910年)以来翻弄され続けてきた。朝鮮が日本の植民地になって以降、朝鮮人は帝國臣民となり、日本国籍保有することになった。日本が敗戦し、朝鮮が解放された後、在日朝鮮人は、みなし外国人とされつつも、なおも日本国籍保有していた。1952年4月28日平和条約の発効に伴って、日本政府の法務府(法務省)民事局長通達によって、本人の意思確認もなく、在日朝鮮人日本国籍は剥奪された。いわゆる在日朝鮮人の外国人化政策である。在日朝鮮人から一方的に日本国籍を剥奪したにもかかわらず、日本国籍を有しないことを口実に各種法律、制度から在日朝鮮人を排除してきたのである。
 民族差別撤廃運動は主として、国籍条項の撤廃を課題として展開されてきた。角度を変えて表現すれば、民族差別撤廃運動の歴史は在日朝鮮人の国籍を軸に展開されてきたともいえる。しかし、民族差別撤廃運動が開始される前の1969年、在日一世の宋斗会が、日本国籍保有確認裁判を開始した。続いて1975年金鐘甲が、さらに1986年には趙健治が同様の裁判を提起した。これら裁判はいずれも勝訴することはできなかったが、他方在日朝鮮人団体は、これら日本国籍獲得の試みに注目することはなかった。民闘連第7回全国交流集会では、在日朝鮮人運動体としてはじめて日本国籍取得をテーマとしたシンポジウムを開催したが、内外の批判を浴びて、論議は継続できなかった。
 総じて、在日朝鮮人日本国籍取得は、議論することさえタブーの時代が長く続いてきたため、在日朝鮮人内部での国籍に関する研究さえもほとんど進んでこなかった。そのような中で、国籍取得特例法案が発表されたのである。運動も研究も未熟な段階で、政府与党から投げかけられたボールを、まともに受け止める力量が備わっていなかったのである。当然、政府与党はこのような在日朝鮮人団体の状況を十分に把握していた。
 参政権運動に対しては、当初から「参政権が欲しければ、日本国籍を取得すべき」との意見は少なくなかった。しかし、これに対する在日朝鮮人団体の対応は、現行の帰化制度の不備を主張するばかりで、仮に帰化制度の不備が解消された場合は、日本国籍を取得するのか否か、態度を明確にしてこなかった。政府与党は、在日朝鮮人団体の虚をついた形となったのである。
 国籍取得特例法案の発表、ただそれだけで、参政権運動は自ら失速したのである。参政権運動に比較的好意的だった日本の世論も、当事者側の真意を測りかねるようになった。しかも、参政権運動は、あたかも民族差別撤廃運動の集大成として位置づけられていたため、結果として民族差別撤廃運動全体が停滞する契機となったのである。
 民族差別撤廃運動は、当初から日本国籍取得という根源的議論を内に秘めつつも、これを回避しながら運動を進めてきた。しかし、大半の国籍条項が撤廃され、指紋問題も在留資格問題もほぼ解決されつつある中で、さらに参政権が射程距離に入ってきた段階においては、もはや国籍問題は避けて通れないところまできたのである。言い換えれば、民族差別撤廃運動の発展が、国籍論を表舞台に引き出してきたともいえる。
 民族差別撤廃運動をリードしてきた民闘連が、挫折したのも日本国籍取得論である、1982年民闘連全国交流集会で、在日コリアン運動としてはじめて日本国籍論を論議したものの、内外の批判を懸念して、それ以降国籍に関する議論はタブーとなってしまった。その後、民闘連は1991年在日コリアンの法的地位協定及び待遇に関する日韓両国の再協議が決定されことに焦点を合わせて補償人権法案を提起した。在日コリアンの権利を擁護するには二国間協議では限界があったからである。この法案は内外の注目を集め、日韓協議にも影響を与えた。しかし協議後、法案制定運動の展望を見出すことができなかった。外国籍のまま、参政権のない状態で法律を制定することなど、はじめから不可能なことであった。参政権日本国籍取得を射程に入れた戦略を打ち出せなかったことが民族差別撤廃運動を内側から停滞させた要因となった。日本国籍取得を打ち出せなかったことは、在日コリアン人権運動のオピニオンリーダーとしての役割を自ら放棄することとなり、後に民闘連はめざすべき方向を失い、組織は次第に弱体化していった。民闘連が在日コリアンの人権運動のオピニオンリーダーとして多くの活動家を結集できたのは、なによりも在日コリアン大衆の願いに忠実であったからである。日立闘争の初期、大半の民族団体は反対の立場だった。しかし、それでも在日コリアン大衆が望んでいるならばそれにしたがって闘いをすすめるという姿勢が後に評価されたのである。しかし、1990年代には、すでに民闘連は大衆の願いから徐々に離れ始めていたのである。

4.3 日本国籍と運動の未来
 参政権運動がつまずく原因となった日本国籍論は、しかし、参政権運動に限らず、これからの民族差別撤廃運動全般に及ぶ重要な課題でもある。なぜならば、国籍条項に限らず、実態上の民族差別撤廃を求めたときにも、「そこまでいうのであれば、なぜ日本国籍を取得しないのか」との問いかけは、繰り返し頭をもたげてくるからである。民族差別撤廃運動にとっての日本国籍論は、古くて新しい課題なのである。
 民族差別撤廃運動がつまずく原因となった国籍取得特例法案の内容は、従来の悪名高き帰化制度と大きく異なるものであり、指摘されてきた問題点のほとんどが克服されていた。
 まず第1条(趣旨)においては、特別永住者等の「歴史的経緯」と「定住性」が、日本国籍を特例的に付与する理由としてかかげている。歴史的責任を「歴史的経緯」という用語で済ませていることに問題は残るが、しかし、少なくとも在日朝鮮人が他の外国人と異なる歴史を背負っていることは明記されている。
 第2条(定義)では、法律の対象を特別永住者特別永住者との婚姻によって日本国籍を失った者(註 元日本国籍者)に限定し、他の一般外国人と明確に区別している。解放後日本の外国人政策は、在日外国人の大半が在日朝鮮人であったにもかかわらず、当時少数であった一時滞在の外国人を想定した法制度を策定し、その中に在日朝鮮人を無理やりに位置づけてきた。大きな転換といえる。
 第3条(届出による国籍の取得)では、従来から問題点として指摘されてきた煩雑な手続きが、届出に変わった。帰化制度では、およそ一般人では不可能と思われるほどの膨大な資料の収集、作成が義務付けられ、さらに申請者の身辺調査やときには思想調査まで行われてきた。その上、法務大臣の自由裁量による許認可制度であったため、認可の基準があいまいであり、その分法務当局のさじ加減が、最終的な認可の基準となっていた。申請者の精神的苦痛は少なくなかったのである。対して、第3条は、日本国籍取得を権利としてまでは、位置づけていないものの、協定永住資格同様に事実上審査なく取得できるものとしている。
 第5条(国籍取得後の氏名)では、「漢字の表記による従前の氏または名を称する場合には、その漢字(日本文字であるものに限る)を用いることができる。」と定められている。ここで重要な点は、「従前の氏または名」をあえて挿入していることである。帰化制度では、従来から、明文上の規定はないにもかかわらず、申請者に対して、暗にまたときには露骨に日本名への変更を要求してきた。これが在日朝鮮人に同化を強要するものとして批判されてきたいきさつがある。国籍取得特例法案では、この批判を意識して、あえて一文を付加して、同化との批判をかわそうとしたのである。
 ただし、第6条では、この法律によって日本国籍を取得した者は、「日本に帰化した者とみなす」と定めており、あくまでも帰化の概念の枠内に位置づけられている。帰化という言葉は、他国の王家に信服し、服従するという意味を持ち、対等な仲間として迎え入れるわけではないことから、当事者の反発を招いてきた。また、第1条に謳われている「歴史的経緯及び日本社会における定住性にかんがみ」という精神と矛盾することにもなる。
 以上、国籍取得特例法案はいくつかの不十分さを抱えているが、しかし、従前の帰化制度と比較すれば、飛躍的進歩を遂げたといえる。