在日コリアン人権運動の理論構築について(12)

3.7 2国間外交から国際的枠組みへ
 今日、国籍差別を規定する国籍条項は、援護年金、参政権など残りわずかとなった。これら成果を振り返って、日韓の2国間協議によって得られたものと、民族差別撤廃運動が獲得したものとを比較したとき、結果は歴然としている。二国間協議によって得られたものは、協定永住資格国民健康保険等わずかにしかすぎない。それ以外の成果は、全て民族差別撤廃運動によるものである。
 しかし、それは国内の民族差別撤廃運動単独の成果とはいえない。国際人権諸条約の存在を抜きに、これら民族差別撤廃運動の成果はありえなかった。国際人権規約(1979年)、国連難民条約(1982年)、人種差別撤廃条約(1982年)、これらの人権諸条約の国内発効は、1970年代から80年代に集中しており、国籍条項が最も多く撤廃された時期と合致する。
 そもそも2国間協定は、経済的、軍事的に強い国家に有利な結果をもたらす。日韓条約とその下に締結された協定が、日本に有利な結果となったのは、当時の韓国と日本の国力の較差の反映であり、韓国の外交技術の稚拙さというレベルの問題ではなかった。日本が従来、在日朝鮮人の権利要求に対して、各国との相互主義を対置させたのは、その方が有利であると判断したからにほかならなかったのである。
 1970年に始まった日立闘争は、1974年民闘連運動として、その後各自治体レベルでの生活権闘争に引き継がれた。児童手当、公営住宅入居の権利獲得は、国の法律、通達の改正が困難であった時期、自治体独自の条例化による解決を求めて、個別に突破口を開いてきた。それを、国レベルの法改正につなげることに、人権諸条約が大きな力となった。国にとっては、在日朝鮮人の要求に屈したのではなく、条約に従った結果であるとの説明ができ、面子を保つことが可能となった。つまり、在日朝鮮人の立ち上がりによる民族差別撤廃運動は、国際人権諸条約を時が与えた最大の武器として活用することにより、多くの成果を獲得することが可能となったのである。
 これは、日本の国が、たとえ日本国内のことであっても、もはや国際的枠組みを無視して一国だけの判断で問題を処理することができなくなったことを意味する。経済に限らず、人権もまた国際的枠組みから自由たりえなくなったのである。いわゆる人権の国際化時代の到来である。この傾向は、その後ますます高まり、国境は低くなり、国籍の壁は薄くなる方向へと進んで行く。
 在日朝鮮人の地位は、韓国、北朝鮮が成立する前は、日本一国で決定され、次いで韓国との2国間協議が、影響を与え、さらに次いでは、2国間協議に替わって、国際的な枠組みがより強い影響力を強めることとなった。在日朝鮮人当事者の立ち上がりが前提となるのはいうまでもないことである。