在日コリアン人権運動の理論構築について(11)

 協定の内容が明らかになると、在日朝鮮人の評価は大きく分かれた。総連側は、協定の内容が不十分どころか、むしろ危険であると宣伝し続けた。これに対して、民団側の評価は二つに分かれた。不十分な点はあるが、従来よりはましであり、相対的に前進であると評価し、引き続き韓国に期待するもの。全くの期待はずれで、だまされた。自分たちは韓国の現政権から棄民されたのだ。軍事独裁政権であることが原因であり、早急に民主的な政権を確立するために、現政権を打倒するというもの。しかし、いずれも国家の呪縛から離れることはできなかった。
 こうして、祖国志向論の大いなる試みとしての帰国運動は、いずれも失望のうちに終わった。

3.6 民闘連運動の結成とその意義
 しかし、民団、総連とは全く異なる立場から、新たな運動が始まった。祖国に頼らず、自分たちの権利は自分たちで獲得する、自立、自闘の運動である。日立闘争を起点とした民闘連運動である。民闘連に結集した在日朝鮮人は、従来の民団、総連から派生したものではなく、主として米国の公民権運動に学んだ在日韓国人基督者と部落解放運動に学んだ者たちであり、いずれも在日2世を中心とした若い世代であった。また、日本人もメンバーとして対等な関係で運動を築くことも、それまでにない画期的なスタイルだった。
 民戦の路線転換、帰国運動、日韓地位協定金日成神格化と、解放後の在日朝鮮人運動は、数々の論争、内部闘争のたびに、さまざまなグループが新たに生まれたが、いずれも南北両国家を軸にした論争の域を出ることはなかった。しかし、民闘連は、朝連に始まる解放後の民族組織からの流れを受けないところから生じた。確かに、解放後の在日朝鮮人運動、とりわけ帰国運動や協定等の祖国志向論に基づく運動が、結果として解放への展望を切り開くことができなかったという教訓が、その基底にあることは否めない。しかし、教訓をもたらしたはずの祖国志向論を自ら体験し、肌で感じた者たちから、民闘連運動は生まれなかった。彼らは、引き続き祖国志向論の中で運動を継続したのである。それほどまでに、祖国=国家とは、強烈な魅惑を持つ幻想なのである。
 民闘連運動の原点は、日立闘争にある。1970年、愛知県で生まれた在日2世の朴鐘碩(以下 朴君)は、日立製作所を受験した。応募用紙の本籍地欄には出生地を書き、氏名欄には日本名を書いた。筆記試験に合格した後、採用に際して会社から戸籍謄本の提出を求められたが、韓国籍であるため、提出できないと答えたところ、後日解雇された。朴君はこれを不当とし、採用取り消しを求めて、横浜地裁に提訴した。在日朝鮮人が就職差別を裁判に訴えた初めてのケースである。
 裁判で、被告日立は朴君が本籍地、氏名欄に虚偽の記載をしたことから、信用できない人物と判断したのであり、応募用紙に真実を記載していれば、このようなことにはならなかった。従って採用取り消しは適法であると反論した。これに対して、原告側は、在日朝鮮人が日本名を名乗るのは、差別の結果であり、もし仮に韓国籍であることと本名を記載していたならば、日立はそれだけで採用しなかったはずである、と反論した。
 朴君を支援する日本人と在日朝鮮人の2世たちは「朴君を囲む会」(以下 囲む会)を結成し、裁判闘争と平行して、日立との直接交渉を行った。交渉で、日立の内部文書が明らかにされ、日立があらかじめ、在日朝鮮人を採用しないとの内部規定を作成していたことが露呈した。また、韓国 の民主化運動団体が日立製品不買運動を宣言し、世界基督教協議会が日立闘争支援の声明を出すなど運動が国際的な広がりを見せ始めたことなどから、日立は判決を前に朴君に対して謝罪し、朴君は日立入社を果たした。
 在日朝鮮人に対する就職差別は、日立闘争よりはるか以前から数え切れないほどに存在した。それまでの在日朝鮮人は、差別を差別と自覚できず、仕方のないものとしてきた。そのような中で、1970年に日立闘争が生起したことには、必然性があった。
 第一に、在日朝鮮人が世代交代に伴って、自他共に認める永住の時代に突入したことである。帰国を前提としていた時代、一世は太く短く稼いで、いつか故郷に錦を飾ることを夢見ていた。しかし、日本で生まれ育った2世は祖国の言葉も風習も解せず、日本以外で暮らすことは不可能であった。日本は仮の宿から、終の住処へと変わり、生活設計も大きく変更することになる。お金がたまれば、子ども部屋を確保するために、家を建てる。老後はこの日本で暮らすことから、年金が必要となる。子どもたちには、少しぐらい給料は少なくても、安定した仕事につかせたい。しかし、帰国を前提にしていたときには大して気にも留めなかったこれらごく普通の願いのことごとくが、国籍条項によって阻まれていることに、矛盾と怒りを覚えるようになるのである。
 第2に、2世が高学歴化したことである。植民地時代に渡日した一世は、日本語の読み書きができず、特定の技術を持たない不熟練労働者であったため、自ずと単純肉体労働等職種が限定されていた。そのため、ホワイトカラー等の職種を選択する余地もなく、したがって就職差別を実感する機会も少なかった。しかし、1960年代後半に入ると、在日朝鮮人にも高度経済成長の波が遅れてやってきた。在日朝鮮人が高等学校に進学することが、珍しくなくなった。大学に進学するものさえ登場し始めた。高等教育を受けた2世は、同世代の日本人とその能力において、なんら遜色がないことを自覚する。にもかかわらず隣の日本人は合格し、能力において遜色のない、あるいはそれ以上の能力があっても自分だけが不合格とされることに、強烈な矛盾を感じるのである。あきらめることができない世代の登場である。
 第3に、在日朝鮮人産業の崩壊と都市化現象による分散化である。解放後の在日朝鮮人は、主として日本人が忌避する産業を支えてきた。養豚、どぶろく、焼酎の密造、炭鉱の臨時工夫、炭焼き、廃品回収等である。これら産業は高度経済成長を機に経営基盤を失い、特に地方の在日朝鮮人は、土地を持たないため、兼農でしのぐこともできず、都市へ移動せざるをえなくなった。また、都市の在日朝鮮人も同様に従来の産業では生活できず、高度成長による人手不足から、中小・零細企業へ就職する傾向が生まれた。このため、在日朝鮮人集落が崩壊し、個別分散化したことから、民団、総連の組織基盤が揺らぎ始めるようになった。個別分散化した在日朝鮮人は、従来の狭い在日朝鮮人社会から離れて生活することによって、民族的出自を隠して生きるという苦難を味わうことになるが、他方日本人社会の中で暮らすことによって、日本人と在日朝鮮人の生活較差と差別を身を持って体験することになる。さらには、在日朝鮮人集落の中にあっては、地域の民団、総連組織が、就学、就労、冠婚葬祭にいたるまで生活の中に組み込まれていたため、収集しうる情報は選別され、限定されていた。しかし、外の世界に出ることによって、民族組織以外の社会の動きに接することから、自由な発想を可能となった。いうまでもなく、それはよりマイナスの意味での同化が進行することとの引き換えでもあった。
 最後に重要な点は、日本国内と世界の人権運動からの刺激である。1964年米国で公民権法が、続いて1969年にはアファーマティブアクション(積極的差別是正措置)が成立した。黒人差別撤廃を求めて米国全土を揺るがした闘いは、日本でも報道された。また同じ年、日本で同対審答申(同和対策審議会答申)が策定され、1969年にはこれを受けて同対法(同和対策特別措置法)が成立した。同じ日本の地に住む被差別者が国を動かす闘いを展開した成果であった。さらには、日本を含めて世界各国でスチューデントパワー(学生運動)が爆発的に高揚した。自由を求めて闘う世界中の若い世代の動きに在日朝鮮人2世の若者たちは、自分たちはこれで良いのかと自問自答したのである。日立闘争を最初に開始したのも、日本の学生運動の活動家たちであった。入管法出入国管理法)反対闘争の中から必然的に生まれた闘いであった。ここにも、民闘連運動の源がある。
 1960年代後半、日本と世界の若者やマイノリティが闘っているとき、帰国運動は終焉を迎え、日韓協定は期待を裏切る結果をさらしていた。在日朝鮮人2世の若者たちが、新たな道を模索しはじめていた時期に、世界中の闘いがヒントを与えたのである。民闘連運動が、従来の民団、総連からの派生ではなく、全く異なった地点から始まったのは、このような時代背景によるものである。
 全国各地に広がった囲む会は闘争に勝利した後、恒常的に民族差別と闘うためのつながりを確保するために、1974年、民闘連を結成した。民闘連は、綱領、規約を持たない、緩やかな連絡協議体として、各地域の運動を主体として尊重する組織形態を執った。また、国籍、民族、思想に係わらない市民運動として出発した。これも在日朝鮮人運動では初めての試みだった。在日朝鮮人運動における、初めての市民運動である。
 自らを国民としてではなく、市民として捉えなおしたとき、それまでは仕方のないものとあきらめていた諸権利からの排除が、不当な差別であると自覚できるようになった。不満を要求に転化させたのである。しかし、だからこそというべきか、民闘連運動は、祖国志向論に立つ、既成の民族組織から「同化への道行き」と批判された。主たる批判者は、総連と韓国の民主化運動を支援する組織である。国家への想いが強ければ強いほど、国家から自立した市民運動としての民闘連は許されざる裏切り者であった。
 それでも、民闘連の果たした役割は偉大であるといても過言ではない。およそ、国籍上撤廃の大半は民闘連が担ってきた。在日朝鮮人の人権にまつわる新聞記事の多くは、民闘連の活動で占められてきた。
 しかし、だからといって在日朝鮮人の多くが民闘連に結集したわけではない。国家の持つ強大な力は、在日朝鮮人の人権運動をリードした程度では、微動だにしない。在日朝鮮人の約90パーセントの出身地は韓国である。一世が死ぬ前にせめて一度でも墓参りしたという欲求は、何者をも凌ぐ切実さを伴っている。そのために必要なパスポートの発行業務は民団が握っている以上、これに逆らうことは、故郷との断絶を意味する。また、9万余人が向かった北朝鮮の代理機関である総連に逆らうことは、北朝鮮にいる父母、兄弟を見捨てることを意味する。国家とは現実に人民の殺生与奪を握っているのである。
 民団はそれでも70年代後半から民闘連の成果を無視できなくなったことから、民闘連の成果を奪取するという戦略をとった。民闘連が、自治体と交渉を重ねて、成果を獲得できた直後、先にマスコミを呼んで、民団の成果として発表するといったこともあった。さらには、1980年に開催された民闘連全国交流集会が、民団の活動記録に掲載されたことさえあった。総連も同様である。国家の下にある組織は、その傘下に在日朝鮮人大衆を抱え、情報の伝達力は民闘連とは比較にならなかった。
 しかし、それでも2世がもはや中心世代になり、3世が成年を迎えるようになったこの時期、このようなまやかしはいつまでも続くはずもなかった。1980年代から、民団の青年会が、民闘連とさまざまなチャンネルを通じて接触をはじめ、青年会が民闘連運動の手法を民団内で展開し始めた。1982年から始まった、外登法改正を求める指紋押捺拒否運動には、民団青年会の活動家も多数参加し、1985年には、ついに民団中央本部が、指紋押捺留保戦術を実行した。これによって、数万人の指紋押捺留保者(事実上の拒否)が登場し、外登法改正運動は日本のみならず、国際的な関心を呼び、これが日韓協議に大きく影響した結果、1991年に指紋押捺制度は廃止されることとなった。
 市民運動としての民闘連運動が、そのフットワークを存分に駆使し、既成の民族組織を動かしたのである。