在日コリアン人権運動の理論構築について(10)

3.5 日韓法的地位協定への失望
 北朝鮮への帰国者が極端に減少した4年後の1965年、日本と韓国が解放後初めて国交を樹立するための条約、日韓基本条約(以下 条約)が締結された。条約では朝鮮半島における唯一の合法政府が大韓民国であることが定められた。これは、日本が北朝鮮を国家として認めないことを宣言したものである。さらに条約では、いくつかの協定が締結され、その内のひとつが日韓法的地位協定(「日本国に居住する大韓民国国民の法的地位及び待遇に関する大韓民国と日本国との間の協定」以下協定)である。
 協定の基本となる条約では、過去の植民地支配に対する責任が明確にされなかった。そこには東西冷戦構造の中、日韓の国交樹立を急いだ米国の意図が反映されていた。また、韓国にとっては、朝鮮戦争で荒廃した経済を復興させるため、外貨の獲得が急務の課題であり、さしあたって期待できるのは日本からの賠償金だけであった。韓国側は当初、植民地支配に対する責任の明確化とそれに見合う額の賠償金を要求した。しかし、日本はこれに応じず、また植民地支配が合法的であったという発言等から、韓国側が強く反発し、交渉は幾度も中断され、長期化した。
 これに対して、米国は両国に早期決着を強く要請した。その結果、韓国側は、国内の強力な反対にも係わらず、早急な外貨獲得に迫られていた事情もあって、戦後責任をあいまいにした形での妥協を決断した。他方、日本は、そのような韓国の足元をにらみつつ、北朝鮮からの国交樹立要求を引き合いに出すことによって、会談を有利にすすめることができた。特に、植民地支配の責任をあいまいにすることができたのは、当時の日本にとっては最大の成果であった。この妥協が、その後の在日朝鮮人問題及び日韓関係に長く暗い影を落とし続けることとなった。
 協定は当然のこととして条約の精神に基づいて策定されることになったため、在日韓国人が日本に居住するに至った歴史的責任は最後まで明確にされず、法的地位、待遇の内容にも歴史的責任が反映されることはなかった。
 条約が北朝鮮を排除したことから、総連は一貫して反対運動を展開した。他方、民団は条約が在日韓国人の生活権利を飛躍的に向上させると期待し、これを組織拡大に利用すべく、積極的な宣伝活動を展開した。総連、民団双方の対立は、日を追うごとに激化し、在日朝鮮人社会の分断、対立はますます深まることとなった。北朝鮮と韓国の代理戦争が、在日朝鮮人を通じて激しく展開され、在日朝鮮人社会の分断はより深刻化した。
 協定は在日韓国人に関するいくつかの事項を確認した。まず1点目には、協定永住資格の新設である。それまでの在日朝鮮人在留資格は、極めて不安定なものであり、例えば犯罪者が1年以上の実刑判決を受けると退去強制の対象となっていた。さらに、解放後日本で出生した者の内、後に生まれる者は特別在留という最も不安定な在留資格になるという矛盾した状態にあった。
 協定では、解放前から引き続き日本に在留する者には、協定永住資格という新たな在留資格の新設が盛り込まれた。この資格者は、退去強制事由が実刑判決7年以上に緩和され、在留期限の制限がなくなる等、従来の資格に比べてより安定したものとなった。
 しかし、その対象は韓国籍者に限定されたことから、総連から猛反発を招き、在日朝鮮人社会の対立をいっそう深める結果となった。朝鮮籍者、韓国籍者いずれも同じ歴史をたどっているにも係わらず、在留資格に格差を設けたのは、当時の在日朝鮮人の大多数が朝鮮籍であったことから、韓国籍への切り替えを促進するねらいであったが、整合性を欠くとの批判が噴出した。また、緩和されたとはいえ、永住資格でありながら、一方で退去強制を課すという矛盾をはらむものであった。
 さらに、協定永住資格は、協定が発効する1966年1月17日から5年後の1971年1月16日までに申請した者と、そのとき協定永住資格を取得した者の子どもには、申請によって付与されるが、さらにその子ども(協定永住第3世代)については、協定が発効して25年後の1991年までに再協議することとされた。つまり、不十分とされた資格であったにも係わらず、子々孫々にまで付与することを日本政府は頑なに拒んだのである。当時の日本政府は、25年後には、在日朝鮮人はその多くが帰化するものと見て、外国籍のままの永住者の存在を極力さけたいとの思惑があった。他方、韓国政府も、子々孫々に愛たる協定永住資格の付与を求めてはいたが、将来の見通しとしては、日本政府と同様であったため、妥協が成立したのである。
 そもそも在日朝鮮人は、解放前日本国籍であった時期に渡日したのであり、渡日に際しては、自国内であることから当然のこととしてパスポートも在留資格も必要としなかった。解放後の1952年、法務府(現法務省)民事局長通達によって、日本国籍を剥奪(離脱)したため、在日朝鮮人は日本に居ながらにして外国人にされた。しかし、日本政府は外国人が日本に居住または滞在するために必要な在留資格を、これもまた日本に居ながらにして新たに確定しなければならないという矛盾に陥った。これが、解放後の在日朝鮮人の処遇問題の出発点である。まさに最初のボタンの掛け違いが、長期にわたって矛盾を残したのである。
 教育に関しては、日本学校への入学を認め、日本人と同様に扱うこととした。
 解放後の在日朝鮮人は、朝鮮に帰国するにあたって、日本で生まれた子どもたちに朝鮮語を教える必要に迫られた。解放前、在日朝鮮人に対して同化政策がとられ、民族教育は厳しく抑圧されたからである。全国各地に自主学校と呼ばれる教室が作られ、やがてそれらが、朝鮮人学校として整備、統合された。多い時には600校にまで膨れ上がった。
 しかし、1948年日本政府は、朝鮮人学校閉鎖令によって全国の朝鮮人学校を廃止し、在日朝鮮人の子どもたちを日本学校に強制入学させたのである。その後、1955年朝鮮人学校は再び再建されたものの、なおも多くの子どもたちは日本学校に在籍していた。要するに、協定が締結される17年前から、すでに日本学校への入学は、日本政府の強制的措置によって開始されていたのである。にも係わらず、あたかも新たな成果として協定に盛り込まれたのは、韓国政府が当時の在日朝鮮人の実態を正確に把握していなかったこと、さらに、それをよりどころとして日本政府が各地に設立されていた日本学校内の民族学級を廃止しようとしたからに他ならない。つまり、日本学校への入学と引き換えに、わずかながら残っていた民族学級をこの際廃止しようとしたのである。事実、協定が締結された1965年12月、文部省は、各都道府県教委に次官通達を出し、協定によって、今後日本学校への入学を認めるが、教育内容は日本人と同様にするとの見解を明らかにした。1948年の朝鮮人学校閉鎖令にともなって、朝連との妥協策として各地の日本学校の中に設置されていた民族学級は、この通達を契機に次々と廃止に追い込まれた。
 少なくとも、教育に関して、協定は全くのマイナス効果しかおよぼさなかった。
 協定がもたらした3点目の成果は、国民健康保険への加入である。これが当時の在日朝鮮人が注目した最大の成果である。在日朝鮮人は、そもそも社会保険(国籍条項はない)に加入するための前提となる、日本の一般企業への就労が困難であった。ところが、被雇用者を対象とした国民健康保険には国籍条項が付されていたため、結果在日朝鮮人の大半が無保険者となっていた。
 在日朝鮮人は健康保険がないため、症状が深刻でない限り病院にいくことはなかった。そのため、病状が悪化して病院に行ったときには、すでに手遅れになるケースが少なくなかった。在日朝鮮人の平均年齢が日本人に比べて低い原因のひとつでもあった。とりわけ、一家の経済的支柱となる者が、病気になった場合、それは即座に一家の経済的崩壊を意味した。在日朝鮮人生活保護率が日本人に比べて多い原因のひとつでもあった。
 大半の在日朝鮮人にとって、北朝鮮社会主義か韓国の自由主義かという政治的選択は、重要な問題ではなかった。最大の関心は生活の安定であり、国民健康保険は協定の中で唯一、生活に直結した課題であった。
 しかし、健康保険がそれまで適用されていなかったこと自体が本来問われなければならない。健康保険は、加入者が保険料を負担して、医療費を加入者が相互に負担する制度である。ここに国籍が介入する余地などないはずである。また、健康保険に財源が不足した場合は、これを税金で補填するが、税金は在日朝鮮人も日本人と同等に負担しているのである。在日朝鮮人の加入を認めないことは、費用負担の面から見ても、二重に不公平といわざるをえない。いわばこの程度の単純な行政差別でさえ、在日朝鮮人運動はそれまで取り組みをしてこなかったのである。しかも、適用されるときは、国家の恩恵という形でしかないという点にこそ、国家という幻想に翻弄された在日朝鮮人運動の停滞が見て取れる。
 総連が協定に反対したのは、これら協定による成果を享受するためには、韓国籍に切り替えなければならず、そのためには、韓国政府から領事業務を委任された民団の窓口に行って、まず民団の加入手続きをしなければならないからである。韓国籍に切り替えるということは、イコール民団に加入することであった。そもそも国家の領事業務を任意団体である民団に委任するという異常な状況を見れば、当時の韓国がいかに在日朝鮮人支配下に置くために、躍起になっていたかがうかがい知れる。
 総連の反対宣伝は、国民健康保険に関しては、なすすべがなかった。在日朝鮮人の権益を擁護するとのスローガンは、在日朝鮮人大衆の前には、うそうそしく映った。在日朝鮮人の権益を代表するというのであれば、もっと早いうちから健康保険獲得闘争を展開していなければならなかったはずである。
 そのため、総連が反対運動の材料に使ったのは、韓国籍に切り替えると、韓国に徴兵されるという脅しにも似た警告であった。確かに、これは一定の効果を奏した。私事であるが、私の家族の場合、私だけは朝鮮籍のままにしていた。長男であるため、いざという時徴兵を回避するためである。しかし、協定永住資格申請の締め切りが迫ったぎりぎりの時期になって、ようやく最後に残った私も申請(代理)したのである。それほどに、徴兵に対する警戒心は強かった。しかし、これも結局はデマに過ぎず、総連の信用を落とすことになった。ちなみに、韓国が在日朝鮮人を徴兵しないのは、言語、習慣が違うため、訓練に支障をきたすからであり、今日においても、在日韓国人が兵役訓練を受けるためには、日常会話に支障がない程度の韓国語能力が要求され、そのための試験に合格しなければならない。韓国にとっての在日韓国人とは、そのような存在なのである。
 協定を梃子として民団(韓国)は、なりふり構わぬ宣伝活動を展開した。その中でも最もよく使われ、かつ効果を奏したのは「永住権(資格)を取れば、差別なく日本の銀行にも就職できる」というものだった。まさに当時の在日朝鮮人の心をつかむ宣伝であった。もっとも、これは全くのデマに過ぎなかったが、しかし、子どもの将来を思いやる当時の在日朝鮮人1世の心をつかんだのは間違いない。
 言い換えれば、協定はすでに高度経済成長の只中にあったにも係わらず、なおも悲惨な在日朝鮮人の被差別の実態に付け込むかのように、たかがこの程度の内容でも、多くの在日朝鮮人を魅惑した。協定が発効した3年後の1966年12月、ついに韓国籍朝鮮籍を上回ったのである。これを契機に、総連の勢力は下がり始め、民団が力を増していくことになる。たかが協定であるにも係わらず、当時の在日朝鮮人にとっては、されど協定であった。