在日コリアン人権運動の理論構築について(9)

3.4 祖国志向論の試みとしての北朝鮮帰国運動
 1959年12月に開始された帰国事業は、総計9万余の在日朝鮮人北朝鮮へ送り出した。帰国した在日朝鮮人を待ち受けていたものは、虐待といっても過言ではない生活苦と政治的弾圧だった。
 北朝鮮への帰還事業は、従来の定説では1958年、川崎市中留耕地の総連の分会が、金日成首相に帰国を求める手紙を出したのが始まりといわれてきた。しかし、近年の研究によって、真実が次第に明らかになりつつある。
 解放後、在日コリアンの多くが故郷をめざした。しかし、北朝鮮金日成人民委員会委員長は1946年12月13日付けの「在日100万同胞へ」と題した書簡で「暖かい故国へ戻ってこようとする在日100万同胞をすぐに受け入れる準備ができていません」と帰国を思いとどまるよう訴えている。当時の在日朝鮮人の中には一部とはいえ、北朝鮮への帰国を希望するものはいたが、日朝間に国交がなく、また肝心な北朝鮮に受け入れの態勢ができていないことから、帰国への道は閉ざされていた。さらに、在日朝鮮人の故郷の大半は、38度線以南の韓国側であったことから、北朝鮮への帰国希望者数には限界があった。
 1954年1月、日赤(日本赤十字社)は朝赤(朝鮮民主主義人民共和国赤十字会)に対して、北朝鮮在留の日本人引き上げついての援助要請とともに「引き揚げ船の往路を利用して、在日朝鮮人で帰国を希望するものの帰国を援助したい」との申し入れを行っている。これに対して、北朝鮮の南日外相は翌1955年2月、対日国交正常化を呼びかけたが、在日朝鮮人の帰国問題については言及しなかった。この段階では、北朝鮮にとってはなおも在日朝鮮人の帰国は歓迎すべきものではなく、日韓会談が開始されていたため、これを中止に追い込み、これに代わって日朝会談を開催し、植民地支配に対する賠償金を獲得することに心血を注いでいた。しかし、同年12月、南日外相は在日朝鮮人の帰国を話し合うために、朝赤代表を日本に派遣することを提案していた。賠償問題を進めるには、帰国問題で日本に貸しを作った方が得策との判断である。また、韓国との対抗上、大半の出身者が韓国側であるにも係わらず、北朝鮮に帰国したとすれば、北朝鮮の優位性を国際社会にアピールできるという政治的利点もある。
 これ以降、日本は在日朝鮮人の帰国を目的とし、北朝鮮は日本側の目的を国交正常化に利用しようとする駆け引きが続く。しかし、日本は一方で韓国が北朝鮮への帰国に猛烈に反発していることから、国赤(赤十字国際委員会)に対して積極的に仲介を働きかける。しかし、北朝鮮は、国交正常化が目的であることから、あくまでも日朝会談を求めるといったやりとりが展開された。
 日本が実に巧妙なのは、表向き日本が在日朝鮮人を追い出した形をとらず、あくまでも当事者からの要望にこたえた形を作り上げたことである。日赤の井上外事部長は、国赤が早期に帰国事業に着手するよう催促の書簡を送っているが、その理由を次のように挙げている。「朝鮮人の数の多さ、彼らの極めて粗暴な性質、さらには彼らが数種の党派に分裂しているという事実に照らして考えれば、いついかなる瞬間にも不幸な事故につながりかねない」。これは朝鮮人が帰国を望んでいるので、いらだっていることを国赤に伝えようとした書簡であるが、文面には当時の日赤の在日朝鮮人観が露骨に表れており、日本が在日コリアンを帰国に名を借りた、厄介払いにしようとしていたことを物語っている。このように、日赤は頻繁に国赤に対して、帰国事業の仲介を要請してきたが、ごく最近国赤の資料が公開されるまで、帰国事業は在日朝鮮人自身の希望にこたえた日赤の人道的措置とされてきたのである。ちなみに、日赤とはいっても、当時の日赤は共産圏に対する外務省の窓口であり、影の外務省ともいわれていた。帰国事業を担当した日赤の井上益太郎も、外務省出身である。彼は日赤の外事部長就任直後から、帰国事業に着手していることから、あらかじめ外務省が帰国事業を目的に彼を日赤に送ったと考えられる。従って、帰国事業は、事実上は外務省(日本政府)が担ってきたに等しい。
 また、帰国事業に関与したのは、日赤、政府だけではない。日本のマスコミも、さらには与野党問わず、日本の各政党も帰国事業を積極的に後押しした。朝日新聞が最初に取り上げた帰国運動に関する社説は1959年2月である。「北鮮(ママ)政府が帰国のための船舶や費用を配慮するとあれば、その希望を満たすために日本政府として帰国の便宜を図るのはまさしく当然のことであろう」として、帰国事業に賛同しながらも、北朝鮮政府が船舶や費用を配慮することが前提としている。ここには、在日に至る歴史的考察や反省は見られない。同じく5日付けの社説には「根本は生活の問題」「8割が失業の状態」「ナベ底から帰郷熱」と帰国の背景にふれながらも「帰えす(ママ)方がお互いのため」として、いかにも厄介払いであるとの考えを露呈している。帰国事業が「人道的見地」であり「基本的人権」の問題であるとの図式を含めて、産経と朝日の姿勢に違いはない。日本の在日コリアンにたいする歴史的責任について言及していない点についても同様である。
 さらに韓国が帰国事業に反対している点について、朝日は「国際世論の批判の前に立たされることを韓国は覚悟しなければならない」、産経は「許すべからざる暴挙」と共に厳しく批判している。
 帰国事業を進めるにあたって、日赤と朝赤の意見は食い違う場面が少なからずあったが、この点に関しても、朝日、産経は朝赤に対する批判的姿勢は同じである。
 さらに産経は6月3日付け社説で「日本は当事国ではなくて」、朝日は同月12日の社説で「日本が実行しようとしている北鮮(ママ)帰還の善意をゆがめることのないよう」という表現でともに、在日朝鮮人の帰国に関して、日本があたかも第3者であり、在日朝鮮人の歴史に責任がないとの姿勢で一致している。
 新聞のみならず、雑誌「世界」や「中央公論」においても、帰国事業に関する記事は、北朝鮮、総連の主張をほぼ鵜呑みする形で掲載している。
 北朝鮮取材記事はどうだったのか。結論からいえば、帰国者の声や北朝鮮当局の声を、留保なしに、そのまま伝えているのが、特徴である。1959年12月12日付け、朝日新聞の特派員報告は「帰還者にわく平壌」と題する記事を書き「きてみれば夢かと思った」という帰還者の声を紹介している。産経も同様に、同20日付けの特派員報告「北朝鮮帰還者 感激の平壌入り」と題して、「不安は消え飛びました」という日本人妻の声を紹介している。帰国船第1便の帰国者が、清津の港に入港したとき、向かえに来ていた北朝鮮の住民の服装が余りにもみすぼらしいため「だまされた」と思わず声を上げた体験談は、今ではつとに知られている。帰国者が帰国してまもなく、地上の楽園がうそであったことに気付き、日本に居る家族や知人に「帰るな」という手紙を暗号で送り、そのため帰国者が激減したのである。北朝鮮の現地で取材したのであれば、当然その事実を目の当たりにしたはずである。にもかかわらず、一様に北朝鮮を礼賛する記事を送ったのは、あらかじめ帰還事事業を促進すべし、というある種の政治的意図に基づいて記事を書いたといわざるをえない。
 これらマスコミの報道が、当事の在日朝鮮人に与えた影響は極めて大きい。朝鮮戦争が休戦して間もないにも係わらず、地上の楽園は本物なのかという疑問は、当事の在日朝鮮人の多くが抱いていた。しかし、日本のマスコミが、地上の楽園との表現こそ使用していないものの、以上見てきたように、北朝鮮の主張を鵜呑みにした記事を掲載したために、少なくない在日朝鮮人が、疑問を払拭し、帰国を決断したのは間違いない。北朝鮮や韓国の主張は、互いに対立関係にあるため、当時の在日朝鮮人は、両者の主張を政治的宣伝として見ており、にわかには信じない傾向にあった。だからこそ、「第3者」を装った日本のマスコミの記事は信用されたのである。