在日コリアン人権運動の理論構築について(7)

第3章 祖国志向論から在日志向論へ―民族差別撤廃運動の誕生―
3.1 抑制された民族差別撤廃運動
 日本にはさまざまな被差別マイノリティが存在する。障害者、女性、被差別部落、ウタリ、HIV患者、外国人等。これらのマイノリティに対する差別の形態は実に多様であり、その歴史も一様ではない。従って、これらの差別をその深刻さにおいて比較することは不可能であり、また設定することになんらの積極的意義をも見出すことはできない。それぞれのマイノリティにはそれぞれの苦しみと悲しみがあり、あるマイノリティの苦しみや悲しみが、他のマイノリティのそれに較べて、よりましであるなどと判断しうるための、いかなる客観的基準も存在しない。苦しみや悲しみもまた、多様な感情なのである。
 しかし、個々のマイノリティの差別の深刻さを計るための客観的基準は存在しないが、個々の差別に対する取り組みの度合いについては、客観的基準を設定することは、可能である。例えば、国や自治体等行政がこれら差別に対する対策を講じる場合、必要な予算を措置する。さらに、措置された予算を執行するための部局(窓口)を設置し、執行に必要な職員を配置する。これらは、数値に表れることから客観的に比較することが可能である。
 在日コリアンに対する民族差別への行政の取り組みは、他のマイノリティ問題に比較して、著しく遅れている。なぜなら、独自の予算措置はおろか、その根拠となる法律がいまだなく、従って政府に担当窓口もなく、担当職員も配置されていない。国に予算や窓口がないため、自治体がこれに取り組むことは極めて困難な状況にある。国の予算措置がない事業は自治体単独事業とならざるをえず、議会での承認が容易ではないからである。
 さらに在日コリアンは、議会(国会、地方議会ともに)に影響力を行使するための選挙権および被選挙権を保持していないことから、議会が在日コリアンの人権や生活を向上させるために、自治体単独の予算を認めることは至難の技といわなければならない。かくして、在日コリアンは、被差別者の中の被差別者としての存在を余儀なくされている。
 それでは、なぜ在日コリアンの人権の取り組みがこのように遅れたのか。国籍、民族の違いは確かに在日コリアン問題特有の要因ではあるが、しかし、他の人権問題においても、それぞれ特有の問題は存在するのであり、一人在日コリアン問題だけが遅れた理由にはならない。
 要は、当事者の闘いが遅れたからである。いかなる人権問題においても、当事者が努力せずして、権利が獲得されことは、歴史上ありえなかった。労働運動、平和運動はもとより、女性、障害者、被差別部落HIV患者等被差別マイノリティも、それぞれ血のにじむような努力、つまり闘いを展開してきた成果として、国の施策、法律、予算を勝ち取ってきたのである。
 ところが、在日コリアンの民族差別撤廃運動が開始されたのは、1970年の日立闘争からであり、しかも、在日コリアンの既成民族団体が、本格的に民族差別撤廃運動を闘い始めたのは、指紋押捺拒否運動が高揚した1985年以降のことである。在日コリアンに対する民族差別は、解放(日本敗戦)前から厳然として存在してきた。解放後、新憲法体制のもと、言論の自由は保障されたことから、在日コリアンの民族差別撤廃運動を展開しうる土壌は成立していた。事実、他の社会運動、労働運動、さらには被差別マイノリティ運動も解放後一斉に組織を立ち上げ、運動を展開してきた。
 在日朝鮮人も解放後いち早く、在日本朝鮮人連盟(朝連)を組織し、生活権擁護の闘いを展開した。その後、1949年、GHQによって解散され、在日本朝鮮民主統一戦線(民戦)へと改組された。1955年北朝鮮の外相声明を契機として、民戦は従来の日本社会の変革(革命)から、内政不干渉へと大幅な路線転換を行い、在日本朝鮮人総連合会(総連)が結成された。
 在日朝鮮人の生活と人権が、日本の政治によって決定付けられるにもかかわらず、日本の政治に干渉しないということは、自らの運命を全面的に日本政府に委任したに等しい行為といわざるを得ない。以降、他のマイノリティ運動が解放後、さまざまな権利を獲得していったにもかかわらず、ひとり在日朝鮮人だけが、自ら権利獲得を抑制するという、にわかには信じがたい状況の中にいたのである。
 要するに、在日コリアンは解放10年後、自ら民族差別撤廃運動を抑制してきたのであり、これが他のマイノリティ運動との決定的な違いであり、被差別者の中の被差別者に陥った原因でもある。
3.2 仕組まれた祖国志向
 民族差別撤廃運動を自己抑制したというのは、あくまでも結果としての表現であり、当時の在日朝鮮人が主観的に望んだわけではない。当然のこととして、在日朝鮮人はよりよい生活を望んでいたのであり、問題はその方向性を日本に対する直接闘争から、その要求をいったん本国に託し、本国の政治力を使って、日本に対して要求を実現させるという、いわば迂回路線を選択したのである。
 具体的には、朝鮮半島の分断された国家が統一され、軍事的にも経済的にも強力な国家を形成すれば、その外交力によって、在日朝鮮人に対する差別を抑止することができるというものである。これを「祖国志向論」と呼ぶ。
 祖国志向論への大胆な路線転換の契機となったのは、1955年2月、北朝鮮の外相、南日の声明である。「在日朝鮮人朝鮮民主主義人民共和国の海外公民である」から在日朝鮮人は、日本の革命に参加せず、祖国の革命闘争に参加すべきである、と宣言したのである。これに先立って、すでに1952年後半に、北朝鮮金日成首相は「朝鮮人は朝鮮の革命をすべきであり」自らの「祖国統一のため闘争するよう」との見解を明らかにしている。当時の在日朝鮮人の最大組織だった朝連は、北朝鮮を支持していたため、北朝鮮首脳による声明は、少なからぬ影響を与えた。そのため、組織内では、賛成派、反対派に別れて、激論が闘わされたが、結果として賛成派が主導権を握ることとなった。これによって、韓国を支持する民団(在日本大韓民国民団)も含めて、祖国志向論が在日朝鮮人運動の主流を成すこととなった。
 さらに、民戦大会が混乱の末にも路線転換を選択した背景には、日本共産党の指導に対する在日朝鮮人党員の不満があった。解放前から在日朝鮮人運動は、日本共産党と深い関係を持っていた。解放直後の1945年12月、日本共産党の再建に際しては、在日朝鮮人の人的、物的支援が大きく貢献した。当時の党員約180名のうち、約100名が在日朝鮮人であった。12月に開催された第4回党大会の役員選挙では、徳田球一、志賀義雄についで金天海が第3位に選出された。しかし、このときの金天海の報告「日本におけるわれわれの行動綱領」において、第一に帰還問題を取り上げたところ、天皇制打倒問題に対する朝鮮人の態度が消極的として批判された。
 解放直後の在日朝鮮人にとって、帰還問題は急務の課題であったが、共産党はこれを受け入れようとしなかった。両者の溝はこれ以降も埋められることはなく、在日朝鮮人党員の不満は、常にくすぶり続けた。1946年3月号の「前衛」では、日本共産党の全体方針が打ち出され、第一の問題として、帰還問題ではなく、日本での闘争、日本人民との共同闘争が取り上げられていたのである。
 民戦の路線転換は、在日朝鮮人と日本人の共同闘争を考える上でも、貴重な教訓をはらんでいる。朝連、民戦の幹部は日本共産党の党員が主流であったため、事実上日本共産党の指導の下にあった。解放前から、多くの在日朝鮮人日本共産党の活動を担ってきた。解放前の在日朝鮮人党員にとっての最大の課題は、朝鮮の独立・解放であったが、日本共産党帝国主義国である日本の革命なくして、朝鮮の独立・解放はないという立場を一貫してとり続けた。従って、在日朝鮮人党員は日本の革命運動に集中することを義務付けられたのである。まさに「日本プロレタリアートの前立て、後ろ盾」(中野重治「雨の降る品川駅」)としての役割を果たしてきたのであり、在日朝鮮人党員には、日本革命に利用されてきたとの不満が常に存在していた。
 その傾向は、解放後も変わることはなく、解放後、日本共産党再建を中心的に担ったにも係わらず、在日朝鮮人の願いは、日本革命に従属させられたため、日本共産党の方針に反映されることはなかった。
 日本共産党が国家の権力を奪取すれば全て解決するという論理からは、個別の課題を熱心に闘うという方針は生まれようもない。しかし、これは共産主義思想からというよりも、その源は国家主義思想にある。国家こそが人類最高の組織であり、全ては国家に従属するとの考えである。国家を全ての出発点とすることから、当時の在日朝鮮人にとって全精力を投入すべき国家とは日本なのか、北朝鮮なのかという選択でしかなかった。
 北朝鮮在日朝鮮人運動を自らの下に結集させた背景には、北朝鮮による対日政策が存在していた。朝鮮戦争休戦後、なおも南北の対立が激化しつつあるなか、1995年2月、日韓会談が開始された。これをけん制するため、北朝鮮は「わが国と友好な関係を持とうとする一切の国家と正常な関係を樹立する用意がある。」との南日外相声明を出し、自らが日本との外交関係を樹立するため、在日朝鮮人北朝鮮の下に結集しようとした。
 民戦の路線転換の契機となった南日外相声明の真の目的は、韓国に対抗して、日本との間に外交関係を樹立することにより、戦後賠償金を獲得し、朝鮮戦争後の経済復興を図ることにあった。その目的達成のため、在日朝鮮人北朝鮮の影響下に置くという戦略を策定したのである。この時期から、北朝鮮からの対日声明の中に「在日朝鮮人の権利擁護」という言葉が登場し始めるが、それ自体は目的ではなく、対日外交のカードに使われたにすぎなかった。
 これ以降、北朝鮮と韓国は、互いに在日朝鮮人を対日外交のカードとして使い、そのために在日朝鮮人を自国の下に結集させようと、あらゆる手法で取り込みを図ったのである。
 取り込みの成功には、日本政府の差別・排外政策が後押しした。日本政府は、戦後責任の問題もあって、何とか在日朝鮮人朝鮮半島に帰還させようと、あらゆる方途を試みた。吉田茂首相がマッカーサーに宛てた書簡はその典型といってよい。
 内政不干渉路線を巡って大混乱に陥った民戦の大会は、結局のところ北朝鮮の方針に従う結果となったのであるが、当時の在日朝鮮人の感覚としては、解放後もなお差別・排外政策に固執する日本政府の姿勢を変革させるよりは、この際本国に期待するほうが得策という、いわば消極的選択であったと考えられる。この一種あきらめの雰囲気は、後の帰国運動に発展する。
 路線転換について、北朝鮮と日本、双方の目論見は、ものの見事に一致した。日本政府にしてみれば、解放後の左翼運動を支えてきた在日朝鮮人を、日本の政治から遠ざけることができ、あわよくば本国に帰還する流れを形成しうる基礎ができたのであり、まさに一石二鳥の効果があった。北朝鮮にしてみれば、日本政府にとって喉に刺さった棘である在日朝鮮人を、自らの影響下に置くことで、対日外交を有利にすすめることが可能となる。確定的な証拠は、現在のところ見つかっていないものの、在日コリアンの内政不干渉路線の背後に、北朝鮮と日本との間における何らかの合意が存在したのではないかと考えても不思議ではない。

 このようにして、解放後在日朝鮮人の自主的運動として結成された、在日朝鮮人組織は朝鮮半島に生まれた二つの国家によって、それぞれの下へ従属され、日本の地において双方の代理戦争を担わされることとなった。両国家の下に結集した在日朝鮮人組織(総連、民団)は、当初在日朝鮮人の権利擁護を第一義的課題としていたにも係わらず、両国家の指導下に入ることによって、権利擁護を目的としてではなく、国家に対する貢献の手段の一つとして位置づけられたため、組織内において権利擁護運動が本格的に取り組まれることはなかった。