在日コリアン人権運動の理論構築について(6)

2.8 民闘連運動への参加と運動の拡大
 郵便外務職の国籍条項撤廃(1984年)を契機に、近畿の各郵便局で民族差別落書きが多発したため、近畿郵政局から全職員向けの啓発冊子の作成を依頼された。即座に快諾したが、運動体の名前では納入できないといわれ、また子ども会の所在地が当時八尾市青少年会館分室の位置づけであったため、ここを事務所にすることもできなかった。そのため、「在日韓国・朝鮮人問題学習センター」の名称で、私が代表となり、私の自宅を事務所にして冊子を納入した。全職員向けということなので、かなりの収入を期待したが、さすがに国の機関である。印刷会社にまで原価の確認を行い、実際には原稿料プラスアルファといった程度の金額しか残らなかった。しかし、版権はこちらにあるので、注文された冊数よりの多めに印刷し、その分を一般に販売するとすぐさまに売れた。当時、在日コリアン問題の啓発冊子はこれ以外にはなかったからである。これを契機に、在日コリアン問題の啓発事業に取り組み、後に社団法人化(1998年、大阪国際理解教育研究センター、略称KMJ)した。日本で始めての在日コリアンの人権啓発法人となった。社団法人化したとき、職員は5人に膨れ上がっていた。
 民族差別撤廃運動は子ども会のレベルから、民闘連(民族差別と闘う連絡協議会)という全国組織の部隊に移っていた。1980年、全国交流集会を八尾で開催したことがきっかけで、その後民闘連に積極的に参画するようになった。後に私は全国の事務局長を務め、1995年の組織改変で在日コリアン人権協会に改組したときは、初代の会長に就任した。
 民闘連との出会いによって、ようやく本音で語る仲間ができた。民闘連は、日立闘争を契機に結成された在日コリアン運動における初めての市民運動である。それまでの既成の民族組織である民団(在日大韓民国民団)や総連(在日本朝鮮人総連合会)は、南北の国家に下に組織され、本国に帰国することを前提にするか、あるいは本国のために活動することを基本にしていたため、日本における差別や人権については、関心を示さなかった。むしろ、南北両国家の下に組織されていたため、日本の地で南北の代理戦争を展開していた。在日世代の多くは、このような姿に辟易としていた。
 これに対して民闘連は日本における民族差別撤廃を共通の課題とし、思想、信条は個人の自由に任されていた。従って、南北の政治問題にかかわらない姿勢を堅持していた。政治的思想、信条を問わない運動体は在日コリアンでは民闘連がはじめてであった。このように民闘連は南北いずれの国家にも従属しない立場を堅持し、国家主義からの脱皮をめざしたのである。既成の民族組織は在日コリアンの人権は、本国が守ってくれるものと信じ、そのため本国の下に従属していた。しかし、人権は人間が生まれながらにして持つものであり、国家が人権を個人に与えるものではない。これは人類の普遍的原理である。人権を享有する主体は人間であり、国家はそれを保持するための手段以外のなにものでもない。人権は国家、国境をいともたやすく乗り越える人類共通の権利である。この原理を自覚したかことから、民闘連は、あらゆる国籍条項の撤廃を闘ってきたのである。人権は国籍などものともしない普遍的原理によって貫かれているのである。国家の支配から自由な市民としての立場を確立し、人権のイニシアティブは自立した市民にあるという理念から運動を展開したのである。
 民闘連はまた、民主主義をなによりも重んじた。各地のグループの立場や意見は最大限尊重され、組織形態は極めて緩やかな連絡体であった。日常はそれぞれの地域や職場で活動し、民闘連では主として実践交流に重きをおき、全体が合意した課題にのみ連携した取り組みを行った。従って民闘連の共通原則は以下の3点のみであった。
一、在日韓国・朝鮮人の生活現実をふまえて民族差別と闘う実践をする。
一、在日韓国・朝鮮人への民族差別と闘う各地の実践を強化するために交流の場を保障する。
一、在日韓国・朝鮮人と日本人が共闘する。
 この間、実にさまざまな闘いを展開した。闘いで得るものは、個別の課題の勝利だけではなく、組織を残すことであると学んでいたため、数々の課題別組織を立ち上げた。子ども会では、保護者会、さらには地区の同胞全体を組織した安中同胞親睦会を結成。また、八尾市に民族教育を保障させる連絡会を結成した。郵便外務職の闘いでは、「李君・孫君を囲む会」を結成し、闘争勝利後は郵政内に「郵便局同胞の会」を組織した。入居差別の裁判闘争勝利後は「入居差別を許さない会」、「在日コリアン全国保護者会」、大学生の在日朝鮮人問題研究会の連絡会も結成した。この組織は私たちの運動の人材供給源ともなった。その他にもいくつかの組織を立ち上げた。戦線はますます拡大していったのである。
2.9 部落解放同盟による組織介入とかく乱
 民闘連は特に大阪で、闘いと組織を拡大していった。啓発事業にも力を入れて、企業や行政の差別事件と闘うたびに、当該企業、行政を組織し、啓発事業をますます拡大した。KMJの会員企業は100社をゆうに超えるまでになり、啓発冊子、ビデオの作成、就職セミナー、啓発セミナーの定期的開催など数多くの事業を展開してきた。また民闘連(後に在日コリアン人権協会)は、従来とは異なり、企業との闘いにおいては、最終的に謝罪で終わらせることなく、具体的な行動計画を策定させ、毎年定期協議を開催する中で、計画の進捗状況を点検していった。
 民闘連から在日コリアン人権協会に移行した1995年から、企業、行政に対する闘いはいっそう拡大し、啓発事業のそれに伴って増大した。しかし、従来から友好関係にあった部落解放同盟大阪府連合会(以下府連)の一部幹部は、自分たちの利権が奪われているとの危機感から、在日コリアン人権協会に対して、妨害を始めだした。2000年のKMJの夏季セミナー(啓発事業)の開催にあたって、前年の夏季セミナーの講演に部落差別の可能性があるから、これを総括しないかぎり従来からの府連としての後援はできないと言い出したのである。前年度のセミナーに関しては、すでに府連の担当者とは総括が終了していたにもかかわらず今になって突然言い出したのである。府連だけが後援団体からはずれても何ら影響はないが、その実府連の書記長である北口氏は、企業や行政を呼び出して、自分たちが後援しないのに、企業や行政が後援するのは許さないとの強力な圧力をかけたため、いずれの団体もセミナーに参加できない状態になった。その後、このような事態は繰り返され、ついには在日コリアン人権協会を脱会した元会員をだきこみ、そのメンバーの名前で在日コリアン人権協会に対する中傷文書を作成、配布したのである。このような繰り返しの中で在日コリアン人権協会の活動は停滞を余儀なくされたのである。この在日コリアン人権協会に対するかく乱と介入には、行政や企業の人権担当者が積極的に行動した。自らの保身と府連の幹部の利害が一致した結果である。
 民族差別撤廃運動はまさにこれから本格的な発展を遂げようとした矢先に、停滞状況に陥ってしまったのである。