在日コリアン人権運動の理論構築について(5)

2.5 部落解放運動との出会い
 高校への進学は早くから決めてはいたが、父が病気になったことから、定時制に進学することになっていた。ところが、高校受験を間近に控えたころ、担任の先生が突然家庭訪問し、母に対して、私を昼間の高校に進学させるように勧めるのである。理由は、私の住んでいる地域が同和地区であり、解放奨学金(同和奨学金)が朝鮮人にも支給されるので、授業料、教科書代、交通費が賄えるとのことだった。アルバイトをすれば、その他の経費はどうにかなるというのである。母は半信半疑ながら喜んで先生の提案を受け入れた。
 ところが、問題は生活保護を受給していたため、ケースワーカーが「昼間の高校に行くのであれば、生活保護を打ち切る。とにかく就職するように。」と言い出したのである。やはりだめか、とあきらめかけたとき、母がケースワーカーに向かって「わかりました。それなら朝鮮人でも就職できる会社を紹介してください」と言ったのである。これにはケースワーカーも答えることができなかった。後日ケースワーカーが来て、昼間の高校に進学しても良いと言ってきた。この時は、さすがに母を頼もしく思ったものである。
 高校に進学してすぐに「部落解放同盟安中支部高校生友の会」から会合の案内が届いた。私も母も、これはなんとしてでも行かなければならないと思い、開始時間前から席に座って待った。私が一番乗りだった。会合には欠かさず出席した。なんといっても、高校に進学させてくれた恩義がある。ところが、私以外のメンバーは、元々地元のなじみということもあってか、時間に遅れてきたり、中には、全く出席しなかったものもいた。私はいつものとおり出席して、言われたことは積極的にこなした。するとまもなく、1年生であるにもかかわらず、副会長になった。会長は2年生だったが、私は事務局長的な立場になり、いつの間にか、私が中心的存在になっていた。
 活動は実に楽しかった。毎週の学習会で学ぶことも新鮮な内容ばかりで、差別の社会的な仕組みを聞いたときは、胸がわくわくする思いだった。とにもかくにも、差別をなくすなどという考え自体が私にとっては、はじめての概念だった。差別は人間の宿命であり、あきらめるか、逃げるか、二者択一の世界だと考えていた。ところが、学習会では、いきなり「差別は、人間が作ったもの。だから人間の手でなくすことができる」と聞かされたときは、実に衝撃的だった。在日コリアンの運動の世界には、差別をなくすという概念そのものがなかったのである。この部落解放運動との出会いが、私の反差別運動の契機となった。
 しかし、差別の学習とはいってもそれは部落問題であり、朝鮮人のそれではなかった。心のどこかで「これでいいのか」という疑問は絶えずうごめいていた。
 夏休みのできごとである。私は毎日にように、支部の事務所に行き、ビラ貼りやオルグ(仲間の勧誘)活動に精を出していたころ、支部の事務で、当時高校生を指導していた青年が見知らぬ人と会話していた。その人は、社会主義青年同盟の活動家で、入管法改悪反対運動を展開しており、支部にその活動の広報に来ていたのである。はじめは何のことかさっぱりわからなかったが、聞いているうちに、朝鮮人がささいなことでも強制送還される法案だという。
 私は入管法自体の内容にも驚いたが、それよりも日本人が朝鮮人問題で闘っているのに、自分は何をしているんだろうと自問し、自己嫌悪に陥った。このことがきっかけとなり、高校生の指導員とも相談した結果、指導員は私を朝鮮総連に連れて行くことになった。単車の後ろに乗せられて、総連の中東支部(八尾の管轄)に行ったが、そこには高校生の集まりはなく、いきなり青年同盟に参加することとなった。しかし、そこでは、祖国のことばかりが話題になり、差別の現実に対する取り組みは皆無であった。差別について聞いても、自分がしっかりしていれば問題はないとか、祖国が統一されれば解決するという、要領の得ない話しばかりで、結局私はここにはなじめず、高校で朝鮮文化研究会を結成し、学内で民族差別撤廃運動の活動に専念することとなった。これには支部の指導員も理解を示してくれた。
 当時、在日コリアンの運動体で民族差別撤廃運動を展開していた組織は皆無であった。日常生活で生起する差別と闘う部落解放運動の闘争スタイルを、どうにかして在日コリアンの運動において実現すべきだと強く感じた。以降、私は在日コリアンの部落解放運動の手法で民族差別撤廃運動を構築する道を歩み始めた。
2.6 子ども会活動から民族差別撤廃運動へ。
 大学に進学して間もないころ、地区の中学生の非行事件が多発し、その問題を巡って中学校と地区の話し合いが行われた。会合では、地区、学校双方とも問題になっていた中学生の非行の原因は「部落差別に負けた結果」と総括していた。この当時、同和教育の世界ではこの言葉が決まり文句になっており、内容を深く吟味もせず、この言葉を言えば学校は地区(部落解放同盟支部)から及第点を受け取れることになっていた。
 たまたまこの会合に出席していた私は、この総括に猛反発し、抗議した。なぜなら、非行事件の中心的メンバーの大半は在日コリアンだったからである。部落問題には取り組んでも、在日コリアン問題には頬かむりする学校の姿勢が許せなかったからであり、なによりも、私がその中学校の文化祭で提起したことが、なんら生かされていなかったことに腹立たしさを覚えたのである。
 会合を終えた後、中学校の先生が私を呼び止めて謝罪し、実は自分たちもどうにかしなければと考えていた、何をすればよいのか、自分たちもできる限りのことはする、というのである。先生たちがここまで言っているのに、抗議した当事者が何もしないわけにはいかない、という思いから、とりあえず自分にできることは、同胞の中学生を集めて、差別に負けない力をつけることだと考え、私の弟とその友達を集めて、勉強会を開始した。これが、私の地域活動の始まりであった。
 その後、大学の友人や地域の同胞学生を集めて、指導員体制を形成し、日常的な子ども会活動に発展させた。名称は朝鮮の民話に登場するユーモラスな妖怪の名をとって「トッカビ子ども会」とした。
 子ども会活動で私が最も力を入れたのは、非行と低学力、そして差別と闘う活動家の育成であった。これも部落解放運動に学んだことである。非行に走る子どもたちを追いかけるうちに原因が生活にあることに気づいた。そこで家庭に深く入り込むようになった。家に泊まりこむこともしばしばだった。しかし確かに、家庭に問題はあるが、今度は何故その家庭がこうなってしまったのか、と考えざるをえなかった。結論は、在日コリアンを取り巻くこの社会を変えない限り問題は繰り返すばかりであると考えるようになった。教育には限界があると考えたのである。これが私の民族差別撤廃運動開始の動機である。
2.7  国籍条項撤廃と差別是正措置の実践
 最初の本格的な取り組みが、地方公務員一般職員採用時の国籍条項撤廃運動である。こども会のとなりにあった八尾市立青少年会館にかよっていた在日コリアンの子どもが、「どうして青少年会館には朝鮮人の指導員がいないの?」という素朴な問いかけから、闘いが始まった。1978年に開始されたこの闘いは、翌1979年勝利(国籍条項撤廃)することができた。これに勢いを得て、郵便外務職員、国民体育大会国民年金、児童手当、公営住宅奨学金、交換留学生、青年の船(近畿各府県共催)等、数々の国籍条項撤廃運動に取り組み全てにおいて勝利した。この勝利は国内の反差別運動のうねり、世論の高まり、そして国際人権規約等の国際条約の批准が後押しした結果である。
 更に、子ども会の行政保障の観点から、在日外国人教育の指針策定も実現させた。また、指紋押捺拒否運動においては、子ども会を中心に保護者、OBが集団で押捺拒否行動を行い、拒否者の裁判闘争も行った。全国キャラバンでは、私が代表となり、メンバーの半数近くは、八尾のメンバーで占められていた。
まさに破竹の進撃といった勢いであった。