在日コリアン人権運動の理論構築について(4)

2.3 歪んだ民族観の形成
 小学校の1年生を皮切りに、差別を幾度となく体験するようになってから、何故朝鮮人は差別されるのか、子どもなりに考えるようになった。結論は朝鮮人自身に差別される原因があるからだと考えた。周囲の日本人たちから「朝鮮人は貧乏」「朝鮮人は臭い」「朝鮮人は悪い」とたびたび聞かされるにつれ、自分自身も事実そのとおりだと考えるようになった。
 貧乏はまさにそのとおりであり、家の前後に豚小屋があるため確かに悪臭が漂っていた。自分の両親が、焼酎、どぶろくの密造、豚の密殺、密売をしていたから当然悪い。テレビのニュースでは、犯罪の報道があるとき、○○コトの次に朝鮮人の本名が出る。朝鮮人の歴史的背景や社会の仕組みなど全くわからないため、周囲の日本人の話と自分自身の体験が一致することから、差別はしかたのないこと、朝鮮人として生まれた宿命をうらむしかないと考えた。
 その中でも、後になって特に悔やまれるのは、父のことである。父は、日本語になまりがあり、日本の文字の読み書きもできない。家に金がなく、テレビやラジオに差し押さえの紙が貼られたとき、父に向かって「小野田セメントに行ったら給料がもらえるよ」と一生懸命に勧めたことがあった。しかし、文字も言葉も不自由な父が日本の企業に就職などできない相談だった。そのとき考えたのは、自分はこの世に生まれて、たかだか10年。それでも、日本の文字や言葉には不自由しない。父はそれ以上に日本にいるのに、いまだに不自由なのは、父の能力が劣っているからではないかと思ったのである。しかも、父だけではなく、周囲の朝鮮人も皆、似たり寄ったりの状態だった。だから父だけではなく、朝鮮民族が日本人に較べて、能力が劣っているのだと考えたのである。
 しかし、幸いにも自分は周囲の大人たちと違って、勉強ができる。だから、自分だけでも朝鮮人から抜け出して、日本人の仲間入りができるのではないかと真剣に考えるようになった。今から思うと人間として許されざることだが、それほどまでに当時の私は差別から逃れたかったのである。
 朝鮮人的なるものの全てが醜く映り、日本人的なるものの全てがすばらしく思えた。母の作った朝鮮料理が不味く思え、チョゴリがみっともない衣服に感じた。日本人の食べる料理は、それが例えたくあんであったとしても、キムチとは比べ物にならないほど高級な食材にも見えた。価値観が味覚までをも支配していたのである。このことを思い出すたびに父と母には申し訳なく、今でも胸が痛む思いである。思春期になって女性に興味を抱くようになったときも、同胞である朝鮮人の女の子には全くと言って良いほど、関心を持てなかった。あこがれていたのは、常に日本人の女の子であった。
 朝鮮人的なるものの全てを否定し、日本人的なるものへの憧れを強烈に抱きつつも、他方では日本人に対する反感は日増しに増大していった。全く矛盾した心理状況だが、私に限らず在日コリアン2世の多くは同様の経験をしている。小学校高学年ぐらいになると、近所の同胞の仲間と共に、いつか大人になったら韓国で軍隊に入って、日本に原爆をたくさん落としてやろう、などと語り合いながら日ごろの鬱憤を晴らしていた。当時はやったテレビのプロレスを観戦しながら、日本人選手が外国人選手に負けたときに、胸のつかえが吹き飛ぶような快感を覚えた。
 この矛盾した心理状況から脱却できるようになったのは、民族差別撤廃運動を開始した後で、20歳の半ばを過ぎたころだった。頭では、これではいけないと考えても、体がいうことを利かないといった状況が長く続いていたのである。
 中学校3年生の6月、私の家族は大阪の八尾市に転居した。山口県にいても、これといった仕事がなく、養豚はすでに安い輸入肉が出回り、残飯を集めて飼育するような小規模経営では成り立たなくなっていた。焼酎やどぶろくを飲む人も減り、日本酒やビールの時代になっていた。また客としてきていた現場労働者の工場の縮小によって激減していた。わずかな田畑を耕しても、一家が食べて生きることはできなかったのである。ときあたかも大阪万博の時代である。大阪にいた父の昔の知人の誘いもあり、その人のつてで八尾に来たのである。転居してきたところは、八尾市の安中という同和地区だった。当時の安中は生活環境の劣悪で、在日朝鮮人も多数居住していた。同和地区に転居したのは偶然ではなく、家賃の安い住宅、在日朝鮮人が働ける土工の仕事があったからである。山口県でもそうだったが、日本の底辺に生きる人たちと隣り合わせでしか、生きることができない必然性があったのである。
 父はしばらく土方をしていたが、まもなく喘息を患うようになり、仕事ができなくなったことから、一家は貧乏のどん底に陥った。このとき初めて生活保護を経験した。生活保護の生徒だけ放課後に集められて、運動会の露店で使える金券を担任の教師から受け取ったことがある。集まった3人のうち、二人は在日朝鮮人だった。金券は誰も使わなかった。生活保護であることが、露呈することを恐れたからである。中学3年生という多感な世代である。今から思うと全く無神経としか思えない。
2.4 反差別への目覚め
 中学3年生の秋、後期生徒会の役員に選ばれことがきっかけで、文化祭の弁論大会に出場することになった。役員会から誰かが出なければならなくなり、じゃんけんで私が負けたというたわいもないことがきっかけだった。
 3学期、高校進学準備の真最中である。この当時、大阪のいくつかの私学は、在日コリアンの進学になんらかの制限を課していた。同胞の友人からの相談で初めて知ったことである。当時いくつかの私学は、在日コリアン生徒を受け入れる場合、事前に中学校の担任や進路指導担当者と話し合い、いくつかの条件を提示する。入学後に任意の寄付金を何口か支払うという誓約書を保護者に書かせる、通常日本人の生徒なら平均点50点で合格させるが、在日コリアンの場合は平均点60点以上しか受け入れない、または成績の良い日本人生徒を数人抱き合わせて受験させるなどである。金もなく、また担任に調整力がない場合、これらの条件をクリアできず、結局本人の成績水準よりはるか低いレベルの高校にしかいけない結果となる。私の同胞の友人もそのケースだった。本人は私の前で涙を浮かべて悔し泣きしていた。
 明らかに理不尽な差別だが、当時私の通っていた中学校では、同和教育が盛んに行われており、毎週の同和教育の時間では、担任の先生が口角泡飛ばしながら、部落差別の不当性を生徒に熱く語っていた。しかし、在日コリアンの進学差別については、先生は誰も問題にしようとしなかった。私はこのことにどうしても納得がいかず、先生自身が差別を認めているではないかと思い、この問題を弁論大会で言おうと決心したのである。ただし、これが山口県の学校だったら恐らく、沈黙していたに違いない。まだ大阪に来て間がなく、知り合いもほとんどいないからこそ、清水の舞台から飛び降りるような決心ができたのだと思う。
 文化祭の弁論大会に先立って、生徒会の担当の先生から事前に原稿を提出するよう求められていた。このときは「学校を花いっぱいにしよう」というダミーの原稿を先生に提出した。文化祭の当日、事前に先生に提出したものとは別の原稿を学生服の内ポケットに入れ、壇上上がった。開口一番「僕は朝鮮人です」と言うと。それまでざわめいていた会場が瞬間に静まり返った。後は、原稿を元に差別の体験を話しながら、最後に先生たちは差別をしてはけないと言いながら、朝鮮人には差別をしていると非難して終わった。
 体育館の壇上から降りたあと、裏口から外に出たとき、同級の男子生徒4人がいた。彼らは校内の札付きの悪と目されていた。私は彼らと付き合いが全くなかった。体育館の裏口にある自転車置き場に来てくれという。これは、やられるなと直感で判断し、覚悟を決めた。ところが、自転車置き場に行くと、当然そのうちの一人が、私の手をとって「ありがとう。ようゆうてくれたな。これからこれから友達になろうな」というのである。彼らが言うには、自分たちも朝鮮人だというのである。そのうちの一人は、父親が朝鮮人で母親が日本人だった。
 自分たちは悪で通っているから、差別されても何もいえないけど、お前は生徒会の役員もしていてまじめな奴だから、みんなも聞いてくれた。自分たちがいいたかったことを、言ってくれたから本当にうれしい、と彼らが口々にいうのである。これには驚いた。
 これを契機に彼らとの付き合いが始まった。学校内ではあれほど、恐れられたにもかかわらず、一人一人は優しい性格だった。彼らの思いを受け止められる先生が一人でも居たら、彼らの生き方もずいぶん変わっていたのではないかと考えた。このときの体験が、後に子ども会活動を始める原点となった。