在日コリアン人権運動の理論構築について(3)

第2章 私の生い立ちと民族差別撤廃運動
2.1 両親のこと
 私の両親が生まれたのは、現在の韓国慶尚北道浦項市で、当時の地名は迎日郡である。父は1914(大正3)年に出生したが、そのころ朝鮮はすでに日本の植民地であり、両親ともに日本国民(帝國臣民)として出生したのである。父の死後、私は父の本籍地である浦項市内の面(村)事務所で死亡届けの手続きを行った際、初めて父の戸籍の原本を見た。驚いたのは、父が出生した時の戸籍が日本語で記載されており、署名された記載者は日本人であった。帝國臣民として出生した父は、解放7年後の1952年法務省民事局長通達によって日本国籍を剥奪されたが、本人のアイデンティティは一貫して朝鮮民族であった、他方、私は解放後、朝鮮籍者として出生したが、朝鮮民族としてのアイデンティティが持てず、むしろ長い間日本人に近い意識を持っていた。国籍が民族意識を規定するわけではないことを父と私の人生が物語っている。
 父は農地を持たない貧農の次男で、子どものころから、薪の行商をしていたが、それでも飢えを凌ぐことはできなかった。母の話しによると、父が子どものころ、遠方の親戚が、父の家を訪ねてきたとき、家族全員が飢えのため、部屋で死んだように横たわっていた。少しずつ粥を飲ませて、ようやく助かったとのことだった。父は、青年のころ、仕事を求めて満州(現中国東北部)のハルピンにまで出稼ぎに行ったが、仕事がみつからず、帰郷した。母と結婚した直後、日本に行けば稼げるとの噂を頼りに渡日したのである。
 朝鮮は1910年日本に併合されるとともに、植民地政策によって、農村経済が極度に疲弊し、大量の農民が土地から排出された。この労働力の多くが渡日することになり、父もその一人であった。父が渡日した1940年ごろは、日本が太平洋戦争に突入する前夜で、日本国内の労働力が不足しており、前年の1939年には国家総動員法の下、朝鮮人から労働者が強制的に渡日させられた時期である。そのため、日本への渡航証明書も容易に入手することができたのである、ちなみに、植民地時代の朝鮮は日本の国内であったにもかかわらず、内地(日本)の失業問題、朝鮮人の治安問題への対応から、朝鮮人の内地渡航にはパスポートと同じ効力を持つ渡航証明書が必要とされたのである。渡航証明書は、内地の労働力の需要に応じて、発行数を調整していた。朝鮮人労働者は内地の産業の安全弁の役割を果たしていたのである。ちなみに父が渡日した1940年の在日朝鮮人の人口は、1,241,315人であった。
 父は渡日後、山口県を起点とし、北は岩手県まで足を伸ばし、生活の糧を得るため日本各地を転々とした。岩手県で生まれた私の兄が、病弱であったため、周囲の勧めに従って、最初に生活した山口県美祢市に戻り、私が14歳のとき、大阪に転居するまで、ここで生活を送った。
 山口県では、両親はわずかな田畑で農業をする傍ら、養豚と焼酎の密造で生計を立てていた。養豚とはいっても、豚を飼育するだけではなく、自宅で捌いて販売していた。いわゆる密殺、密売といわれるものである。焼酎も自宅で密製造し、これも密売していた。どぶろくも同様である。これらは当然のことながら法律違反であり、たびたび摘発されていたが、それでも、この仕事を繰り返していた。幼いころは、これ以外に仕事がないということがわからず、ことあるたびに「母ちゃん、こんなことやめようや」とせがんでいたことが今も忘れられない。
 少し物心がついたころ、法律違反ではあるが、これで自分たちが生活しているということがわずかながら理解できた。このころから、税務署の摘発の見張り役をしていた。私の家に来るには、駅から橋を渡らなければならない。そこで、両親が焼酎を製造しているとき、私が橋の袂で、駅の方角から見慣れない大人たちが来るのを見張り、来れば家に向かって合図するといった寸法である。ところが、あとになってわかったことだが、税務署もよくしたもので、私が橋の袂にいることで焼酎の密造がわかったようである。当然税務署はすぐさま私の自宅に走り出し、摘発するのである。橋から自宅まではものの100メートルなので、片付ける暇などない。
 罰金は押収した焼酎の量に応じて課されるので、幾度か母が押収の寸前に、焼酎の入った大きな甕を叩き割っている姿を見た。どれほどか悔しかったろうと思う。それでも、しばらくすると、押収された器具を近所の金物屋に注文し、再び焼酎を密造するのである。不思議なことであるが、この金物屋は、通りに面した場所にあり、店の前を大きく開放し、仕事をしている姿が誰の目にも見えるのである。小学校に行く道沿いだったので、私の家が注文した焼酎の器具を作成しているところを幾度となく見かけた。ということは町中の人が見ているわけであり、当然警察も知っているはずである。後になって聞いたことだが、税務署に密告していたのは当の金物屋ではないかという話である。確かに金物屋であれば、器具がいつ完成するか本人が一番良くわかっており、器具が完成すれば、待っていたかのように、両親が焼酎を密造していたこともよく知っていたはずである。
 密造、密殺は生活のため仕方がないとしても、我慢できなかったのは、私の家に酒を飲みに来る客である。近くに小野田セメントや宇部ソーダの工場があり、職員は3交代で勤務していた。夜勤明けの早朝、昼勤明けの夕方、毎日のように石灰で真っ白になった労働者が、自宅の土間に陣取って、焼酎やどぶろくを飲んでいた。喧嘩は日常茶飯事だが、それよりも悪酔いした客が両親をつかまえて朝鮮人のくせにとなじるのは、とても辛かった。それも決まって、たまったツケの支払いを催促したときである。いやだったのは、いつもは怖い両親が、そのときばかりは、へりくだっている姿を見ることである。子供心にも、こんな大人にはなるまいと思ったものである。
 しかし、毎日のように酒を飲みに来る労働者は、末端の現場作業員だった。工場のホワイトカラー」は一度も見たことはなかった。最底辺の現場労働者がいることによって両親の仕事が成り立っていたのである。
 このころの父にとって最大の楽しみは、韓国に帰ることだった。数年に一度、父が韓国に帰るときは、私が見たこともないような新品のカメラ、当時はやりだしたトランジスタラジオなどをトランクに満載していた。いつもは母が、これだけは持っていかないでくれと泣きながら父に訴えていたことが印象的だった。父が韓国の故郷に帰るのは錦を飾ることが目的であった。父にとって、日本は仮の宿であり、いつか故郷に帰ることを夢見ていたのである。従って、日本社会に対する関心は薄く、地域社会にも最低限の範囲内でしかかかわろうとはしなかった。
2.2 差別の洗礼
 私の記憶では、自分が朝鮮人であるということに気づきはじめたのは、幼稚園の最終年度のころである。お寺が経営していた幼稚園で、ある日一人で木陰で座っていたとき、同じ年齢の園児数人が、私を取り囲みながら「チョーセンジン、チョーセンジン」とはやしたてたのである。そのときは、なんのことかわからず、家に帰って母に聞いたが、要領の得ない答えだったと記憶している。しかし、このことを今でも覚えているのは、当時それなりに気にしていたのかもしれない。
 本格的に差別を経験したのは、小学校の1年生のときである。寒い冬のころ、朝一番担任の先生が教室に来た時、みなで起立した際に、突然先生がつかつかと私の前に来て、いきなり私の頬を思い切りたたいたのである。思わずその場に倒れこんだ私を上からにらみながら先生は「それが朝鮮人の起立か」と大声で怒鳴ったのである。一瞬何のことか理解できなかったが、しばらくして、私が起立したときに、ズボンのポケットに手を入れていたことが理由だとわかった。
 しかし、納得がいかなかった。なぜなら、クラスの男の子の大半が同じように、ポケットに手を入れていたからであり、また一番後ろの席に居た私のところにわざわざ来たのも理解できなかった。先生が自ら暴露したように「朝鮮人」だから、このような仕打ちを受けたのだと思った。
 その後も、何度か同じようなことがあったが、当時の私はたとえ朝鮮人であっても、先生に気に入られれば2度とこのような仕打ちをうけることはないと考え、掃除も率先して行い、勉強も一番ではないにせよ、常に上位に居た。しかし、先生の私に対する態度は一向に変わることはなく、成績表も3学期を通してオール3だった。両親は黙っていたが、隣の日本人のおばさんが、あまりにもひどいではないかと怒り、自分が先生に抗議すると言い出だしたが、両親が必死になって止めるという場面もあった。内心このおばさんが怒ったことは、子供心にうれしかった。
 今でも思い出すと胸が痛む思い出がある。小学校の4年生のころ、母が私の通う小学校に豚の餌用に残飯をとりに来ていた。私が学校を終えて帰るころ、リヤカーを押して、学校に向かう母に道で出会うことがあった。いつもはお互いにそしらぬ顔で通り過ぎるのであるが、ある日友人と一緒帰ることになった。私は母と出くわすとまずいと考え、いつもと違う道で帰ろうと友人に提案したのだが、なぜか友人は頑としていつもの道で帰るといって聞かない。仕方なく二人で歩いていると案の定、母がリヤカーを引いてこちらに向かって来た。残飯の汁がこびりついた、いかにも汚らしいリヤカーを手ぬぐいで頬かむりした母が、黙々と引いていた。それを見た友人は、母の顔を知らないので、母を指差して「チョーセン、チョーセン」と大声ではやしたてはじめたのである。さらに友人は私にも、一緒にからかおうと誘ったが、さすがに私は「もうええから、早く帰って遊ぼうや」としきりに友人の手を引くが、友人は私の誘いに乗らず、今度は母に石を投げ始めた。母はそれでも、何も言わず、ゆっくりとリヤカーを引いていた。とうとう私は、友人の手を無理やりに引っ張って強引に帰った。このときのことは今でも忘れることができない。大人になって、母に謝ろうと考えていたが、機会を見つけることができないまま、他界してしまった。これは私の原罪である。
 高校2年生のとき、担任の先生から朝鮮人であるため、就職を世話できないから大学に行ったらどうかと勧められたこともあった。そのときはさすがにショックだったが、今から思えば、母の思い出がもっとも辛い差別の体験だった。