白鳥事件…現代史の証言(2)

 57年の夏、川口夫妻は人民大学分校にいた200人余の日本人と共に、重慶に移動した。書名の『流されて蜀の国へ』の旅である。7日間の汽車の旅ののち、重慶に着き、その郊外の歇台子にある「中共中央第七中級党校」に送られる。
 本書の第二章「重慶市歇台子で」と第三章「大躍進の渦中で」は、新中国成立後の最初の重大な転換期である反右派闘争・大躍進運動に「亡命」日本人として参加した著者自身の体験記として興味深い。58年には、学校が成都に移転して「省党校」となり、川口夫妻は以後この地で氏名も中国風に変え、中国人幹部と給料や宿舎など生活を同じくして、中国の国家幹部の一員として11年の歳月を送るのである。数年で共産主義に到達するという毛沢東の幻想から生まれた「人民公社」運動、密植と深耕、土高炉、公共食堂等をめぐる悲喜劇の数々が、ここに紹介されている。
 数例を紹介するならば、58年秋の農村の大躍進運動では、男たちの大部分が「土高炉」の原料と燃料としての鉄鉱石と石炭採掘のため山に入ってしまい、人民公社の主な労働力はお母さんや子供、老人ばかりとなり、公社の指導部はお母さんたちに「夜も1カ所に集まって泊まり込み、家に帰ってはならない」という決定まで行なった(お母さんたちの訴えを受けた川口氏が独断で「明朝六時半まで集まること」に変えて喜ばれたという)。こうした人手不足のもとでの「突撃」の刈り入れで大量の落ちこぼれが生じ、それに無料の公共食堂の浪費が重なって翌59年には食料不足が発生し、さらに自留地も禁止されたため農村で野菜が不足して公共食堂では真っ赤な唐辛子だけになったこと、また何百人分もの食事をつくるためと、土高炉の石炭不足のためまわりの木や竹林も切って燃やされたこと、等々。なお川口氏は、「この時の中国の山林と植林の大破壊は新中国誕生以来最大のもの」であり、これらは根底にある「共産風」による所有権の完全な無視が招いた結果であると述べている。
マルクスの「共産主義社会」においては、「人間と人間との相克の真の解消」は、同時に「人間と自然との相克の真の解消」だったはずであるのに(『経済学・哲学草稿」)。
 この不幸な運動は、同時に上意下達の官僚主義の極限化と不可分だった。この本によれば、58年秋の農村の大躍進運動では、深耕の目標は2尺から3尺、収穫高目標は「畝産千斤」から2千斤、最後は1万斤という馬鹿げたものだったが、実際に耕していた深さはせいぜい5寸あまりであり、小麦の収穫量も1畝(ムー、約6.7アール)当たり200斤から300斤(2150キロ)が最高だった。「真面目な幹部が事実に基づいた計画目標を出すと『右翼日和見主義』として批判の対象となり、上下左右から責められて数字を上げさせられる。最後まで実際にあった正しい意見と目標にこだわると、今度は上の指導に従わないとクビにされる始末である」。川口氏は、県委員会のある書記が「深耕六尺」(約2メートル)の目標を掲げ、囚人を1,000人連れてきて自分の「試験田」を作って模範を示そうとした例などを挙げている。著者は、大躍進政策による食料不足の結果、餓死者は多数(1,500万人とも2,000万人ともいわれる)出た、と記しているが、B・R・ミッチエルの『国際歴史統計』を見ると、中国の総人口は1960年と1961年の2年だけ、前年より滅少している(2年合計で1,948万人)。こうした事態は、文革期にも見当たらない。
 第五章「彭県での日々」は、文革のプレリュードとしての「社会主義教育運動」(四清運動)に参加した体験の叙述であるが、すべての困難の背景に「階級敵」を見る極左路線が他方ではどんな悲劇を招いたかを、いくつかの実例に即して生々しく描いている。毛の「階級闘争至上主義」は、65年1月の「23カ条」では「党内の資本主義を歩む実権派は四清運動の打撃の主要対象である」として、ついに党中央の幹部を第一の階級敵として規定するに至り、文革期の「奪権闘争」に道を開く。
 第六章「『文化大革命』と帰国の望み」で著者は、66年に日共の宮本代表団と毛沢東との会談が決裂したのち、著者を含む成都にいた日共党員が全員日共の立場に反対することになり、北京に赴いて日共の代表である砂間一良氏と論争した様子を記している。その後、文革が進展するにつれて、文革の局外に置かれていた中国在住の外国人たちの間に文革への参加を要求する運動がおこり、66年12月末に中国外交部主催の大会が開かれ、この席に外交部長陳毅から、「外国人も参加できるという毛沢東の指示が伝えられた」という。日本人でこの大会に参加したのは、川口氏を含む三人だった。以後、川口氏らも文革に参加してゆく訳であるが、そのなかで日共に造反した北京の日共左派は、67年1月27日に声明を出して日共に決別し、日共はこれら造反組の除名を『赤旗』に発表した。著者は、同年の8月4日、北京の日共代表の砂間一良、『赤旗』特派員の紺野純一両氏が日本へ引き揚げる際、日本人の「左派」が組織し、中国各大学の紅衛兵も参加して北京空港でおこった両氏への「批判大会」の様子をも、参加者のひとりとして描いているが、それは氏によれば「全く批判などといえる代物ではなく、単なる暴力的迫害でしかなかった」。川口氏によれば、氏自身も何とも情けない批判大会だと思いながら、口に出さなかった。
 その後、川口氏自身が打倒され批判される側にまわってしまい、それを機に文革そのものに疑問を抱くようになった、という。氏はこの点について、一般的に中国で養われている各国共産党員は根無し草同然であり、そのために教条主義の観念論に陥りやすかったのだ、と自省をこめてこの時期を回顧している。
 川口氏の著書の第六章から第八章までは、かの「文化大革命」期を生きた氏夫妻の体験が語られており、興味深い種々のエピソードも登場するが、本稿では紙面の都合上、その紹介は省略し、読者の皆さんの本書の直接のご参照をお願いして、氏夫妻の出国と帰国をめぐる諸問題を、日本共産党政治責任との関連で改めて考察し、最後に「白鳥事件」(ならびにそれに関連する諸事件)とその解明が日本の社会主義運動の今後のありかたにとって持つ意味について私の所見を述べたい。  だが、第六章以降(1967〜73年)の氏の叙述から受ける感想について一言するならば、そこにあるのは、「大躍進・人民公社」期の挫折とそのすさまじい犠牲によって上からつくられた熱狂から冷めた中国民衆が、政治・文化・情報の党独占のもとにありながら、危機にさらされた権力と権威を守るために再度発動された上からの「革命」「文化大革命」の嵐を、自然災厄のように耐えながら、中国人らしい現実主義で受け流し、凌ぎ、時には楽しんでもゆく大地のようなしたたかさ、であり、そしてまたこうした民衆に接触しながら、スターリンや毛沢東、日共綱領路線のドグマから次第に自分を解放していった氏の思想の営み、である。
 このような現実主義の背後に、毛沢東は自分の絶対的権威をおびやかす「実権派」の影を見た。頼りになるものは、無垢の若い世代だった。長く毛の主治医を務めた李志綏は、文革が始まった一九六六年、八年前の大躍進の年に毛が語った次の言葉を思い出した。 「若い無教育の世代は昔から新しい思想を生み、新しい学派をつくり、新しい宗教を編み出した。……孔子が思想の新しい学派を打ちだし、弟子を集めたのは23歳のときだった。キリストはどんな教育を受けたというのかね?ところが、キリストの創設した宗教は今日まで生き続けているじゃないか。シャカムニは19歳で仏教なるものを編みだしたんだぞ。孫文もまた学の人ではなかった。革命を始めたとき、高校の教育しかうけてなかった。……偉大な学者ってのは常に、若くて学校教育を受けてない世代によってひっくりかえされてきた。若かろうと知識が豊富でなかろうと、問題じゃなかった。大切なのは真理をつかんで勇敢に前進することなんだ」

 毛沢東紅衛兵。だが後者にとって、真理とは毛沢東の一言一句以外ではなく、彼らは毛の語録だけをつかんで突進し、やがて捨て去られた。そして白鳥事件の若い犠牲者たちも、彼等と似た道をたどるのである。

誰の罪か? −「追放」の責任問題をめぐって
 川口夫妻は、1972年の田中訪中(9月)と日中国交回復のほぼ一年後、本書でいう「日共(左派)」(いわゆる「山口派」)から委託を受け、夫妻の戸籍謄本を携えて日本からやって来た日中友好協会(いわゆる「正統派」)の事務局長三好一氏と北京で会い、日本大使館で帰国手続きをすませ、73年12月13日船で若松港に着いた。36歳で出国してから、17年ぶりの帰国であった。
 川口氏は、第九章「日本への旅立ち」の末尾で、次のように記している。「私にとって帰国とは単なる『里帰り』というようなものではなく、人為的な桎梏からの解放を意味していた。私は1950年から非合法の地下活動に入り、自らの意志ですべての生活を党活動に従属させていた。このことについては今も全く後悔はしていない。しかし、中国に17年間もおかれたことについては私の意思ではなく、党のペテンによって半ば強制されたものであり、さらに、私たちを日本革命の成功まで、つまりは一生帰国させないという日中両党の間で交わされた取り決めの結果である。これは「党組織を守るJことをすべてに優先させ、党員個人に全く不合理な犠牲を強いる以外の何物でもない。  私は17年にわたり革命の名において抑圧されてきた個人の権利と自由が回復されたことを喜ぶと同時に、『党の利益、革命の利益』を理由に不必要な亡命と、束縛された人生を強制されたことについては、何とも言えぬ悔しさと怒りが込み上げてくるのを禁じ得ない。」(傍点引用者)
 氏はまた、帰国が実現できた二つの条件として、「66年の宮本顕治氏と毛沢東とのけんか別れによって、事件関係者に関する日中両国間の取り決めが効力を失い、ここに私たちの帰国の可能性が生れたこと」 72年の田中訪中と日中国交回復によって合法的に帰国できる条件が生れたことを挙げている。
 それでは、白鳥事件関係者を帰国させない、という日中両共産党間の「取り決め」は実在したか? もちろん、そうした取り決めは当時の両党のごく少数の関係者しか関わっていないに違いないが、このような重大事件の関係者の非合法的渡航とその受け入れについては、事前にも両党間でそれなりに立ちいった「取り決め」があったと考えるほうが自然であろう。だがそれは本人の意思はともあれ、「党の利益のために」是非亡命させたい当人には、伏せられるか、別の受け入れられやすい「理由」にすりかえられる。日本革命が成功するまで帰国できない、などといえば、当人が拒否する「危険」が必至だから―事件に関係がないと確信している人物はとりわけ―である。  国際派の幹部だった亀山幸三氏の回想には、このあたりの事情を推測させる次のようなエピソードがある。六全協の少し前、志田重男氏は椎野悦郎氏に中国に行くようすすめ、椎野氏はその気になっていたが、中国から日本に帰っていた西沢隆二氏が、「君が向こうへゆけば袴田の下で教育を受けることになるからそのつもりで!」といわれ、直前になってきっぱり中止した、といわれる。
 「そこで、志田は椎野の代わりに自分の直系である吉田四郎(北海道ビューロー責任者、志田直系の中央からの派遣幹部)をやろうとしたらしい。これもずっとのちに吉田本人から…聞いたものである。吉田も、静岡県焼津港へ船が入っているので何月何日にそこへゆけと指示されていたが、その日の直前にパッと逃げたそうである。吉田も何か暗い予感がしたそうである。……この椎野、吉田、小松への軍事責任転嫁の陰謀は空恐ろしいものを感じる。」
 だがこうした状況を知る地位にいなかった川口氏は、「仕事をするために北京に行ってもらう。北京で党の責任者に会って仕事を決めてもらい、仕事が終われば日本に帰ってもらうことになる。また仕事で行くので奥さんも一緒に行ってもらう」という梶田茂穂氏の言葉(56年3月)をそのまま信じ、「第一勝漁丸」で焼津港から中国に密航した。ところが日共代表として北京にいた袴田里見氏は川口氏に一度も姿を見せず、氏はやがて北京郊外の「人民大学分校」(日本革命のための幹部養成学校、52年に日中両党間の協議により設立されたものと推定される)に送られたが、そこで中国人の校長連貫氏から「情勢に基本的な変化がないと、日本には帰れない」と宣告されたのであった。