白鳥事件…現代史の証言(3)

 川口氏から直接お聞きした内容を含めて、終章「私と『白鳥事件』」に述ベられている氏の「日本追放」までの経過を、簡単に整理してみよう。
 川口氏は1921年、北海道上川郡上士別村に農家の四男として生まれ、小学校高等科を卒業後、農業に従事していたが、戦時中一時横須賀海兵団に入団、復員後は再び農業に従事しながら、農民運動に参加するなかで村上国治氏を知り、彼が推薦者となって四七年か四八年に共産党に入党する。五一年一一月、札幌に出て、北海道委員会の軍事部門(責任者は輪田一造氏)の一員として活動中に、白鳥事件がおこったが、氏自身はこの事件に無関係であり、後に「関係者」から事実を聞いた、という。ただ氏が事件に全く関係していないことは、氏がこの書で強調されているように、検事調書のなかには「私の本名はもちろんのこと、私のペンネームも載っていない」(19)ことからも明らかであり、また事件とその周辺に関するどんな容疑の対象にもならなかった事実が、雄弁にそれを証明している。しかし、事件後、どういう「関係者」から、どんな内容の事実を聞いたのかについては、氏は現在のところ、明らかにはしていない。
 白鳥事件の半年後の五二年七月から五三年八月まで、川口氏は道十勝地区委員長を勤めたが、その後五三年八月に東京に転出し、東京都委員会の非公然ビューローの一員として活動する。1955年1月、日共中央は分裂していた両派の幹部が共同して六全協の準備を始め、東京都委員会も四月からすべての組織を公然化したが、川口氏だけは「白鳥事件」に関係があるということで非公然で残され、軍事部門を解散し、蓄積されていた武器を廃棄する「残務処理」に当たることになった。
 六全協(五五年七月)後、氏は東京都委員会から党中央の統制委員会の管轄に移ったが、そのうちに党中央から連絡に来ていた酒井定吉氏から、「誰にも言ってはならない」と口止めされたうえで、氏が近く中国に行くことになる、といわれる。  十一月には統制委員の梶田茂穂氏から呼出しがあり、そこでは北海道委員会の村上由氏が北大生高安知彦氏などの検事調書等、膨大な白鳥事件に関する資料を持参しており、これを三日問で全て読み、内容の真偽を確かめてほしい、といわれた。 「読み終わったあと、高安君らの供述内容は、私が「関係者」から聞いていた事実と基本的に一致していることを伝え、さらに、この検事調書の中に『事件関係者』として記載され検察に追及されている者を党は守るように、付言しておいた。」(20)。  その後梶田氏は、中国行きは多少延期になる、と言ってきたが、川口氏が自分が事件と関係がない以上、中国に亡命する必要など全くない、と反論したところ、ついに「中国に行かなくてよい。そのかわり党組織から離れてくれ。そうすれば君が逮捕されても党組織には関係がないから」という話が出され、氏はそれを受諾した。それで、中国行きの話が完全に消えたと思っていたところ、離党についてまだ結論を出していなかった五六年三月に、梶田氏が再び中国行きの話を持ち出してきたが、その内容は仕事をするために北京に行ってもらい、終われば帰ってもらう、という以前とは全く別のものであり、氏がそれを信じてすぐ中国に密航したことと、その後中国で起こったこととは、先に見たとおりである。
 以上の経過からすでに明らかなように、当時の日本共産党中央は、川口氏による検事調書等の検討結果に基づいて事件の真相を知り、関係者の亡命(これは恐らく1954〜59年、六全協以前と考えられる)に続いて、事件の司法的追及から「党組織を守る」ために、事件に詳しい川口氏を偽りの理由でだまして中国に送り込んだものであり、もとより普遍人間的基準から許され得ないのみならず、いまだに著しく時代遅れの党規約にも違反するもの、である。
 日本共産党は、川口氏の批判に答えて、この間の経過を(中国党との「取り決め」を含めて―両党間の関係が「正常化」した今、このことができないはずは本来ない)明らかにし、誠意をもって川口氏に謝罪すべきであろう。
 ところが日本共産党広報部は、川口氏の著書についても「党が分裂していた当時の一方の側の問題で、党としてコメントする立場ではない」(21)という、伊藤律氏の場合と同じ卑劣な逃げ口上でみずからの政治責任を放棄し続けようとしている。だが、以上の経過が示すように、川口氏を偽りの口上で中国に追放したのは、六全協で党が統一を回復したのち(五六年三月)の出来事である。しかも川口氏は、日共から派遣されて中国に来ていた党委員の大多数が帰国した五八年後も、四川に「山流し」にされたままにされ、これ以降、中共を経由しなければ日共に連絡が取れなくなってしまった。
 なおこの点に関連して、川口氏の本書について石堂清倫氏と清瀬市の氏のお宅でお話した際、石堂氏は、この遠方に追放するという手法は中国共産党の手法で、自分も追放されかかったことがある、と次のようなご自身の体験を語って下さったこともここでお伝えしたい。氏によれば、終戦後大連市にいた当時、氏が所属していた在華共産主義者同盟の指導部から、「中共の希望だから満州の奥地に行ってくれ」といわれたことがあった。当時の大連では中国のコミュニスト内部で新四軍系と八路軍系の対立があり、先の組織の指導部は、三対一で延安組(八路軍系)が強く、自分を排除しようとしたらしいが、自分は帰国できなくなる危険を感じてそれを拒否した。折よく大連病院に入院したが、ソ連人の軍医が『資本論』の方法について自分に質問してきたので、ヘーゲルの『精神現象学』の方法を適用して説明した本に即して説明すると、それを読み終えるまで入院を継続して認めてくれ、お蔭で助かった、ということである。石堂氏は、伊藤律の場合も、日共は中国に置いて「殺してくれ」、と頼んだと思う、返さないという約束で。中国は流刑地だった、と語られた。この解明と解決がなされない限り、二〇世紀における東アジア史の暗黒の一面は、次の世紀まで永久に続くのである。

歴史の暗部の放置は許されるか?
 根源的にいえば、放置できる歴史の暗部(または歴史の空白)などは、存在できない。まぜならそれは、それぞれの立場の歴史の系統性を破るからであり、暗部は種々の「党派的」立場の色彩により塗りつぶされ、埋め合わされる。問題は、その埋め合わせかたが、歴史の深い真実と、どういう関係にあるか?という点にあり、その色彩の多様性と移ろいの速さは、ロシア革命以後のロシア現代史(「ソ連」自体の消滅)や、維新以後の日本現代史をめぐる状況が、もっとヴィヴィツドにそれを描いてくれる。  しかし、私たちはこうした転変する歴史像の単なる観客、評論家でありえない。イデオロギー化された歴史像とその価値観は、時にはその舞台に立つ人間の全人格から生命までを左右する。
 白鳥事件をめぐる状況は、そのもっとも悲劇的な典型のひとつ、といえよう。
 白鳥事件をおこした「関係者」が、当時の在札共産党員とシンパサイザーの一部以外であったとする「えん罪」説をまともに信じている者は、もうほとんどいないであろうし、事件後間もなく出された「原田情報」が跡形もなく消えた後、誰が?に対する他の有力な提説も、この四〇数年にわたって、まったく見られない。
 私が知る限り、事件に関心を寄せ、村上被告を守る運動に好意と協力を示した共産党員やシンパサイザーの皆さんの多くは、心底の一部でこう自問自答していたはずである―真相はどうあれ、獄中と法廷であれほど英雄的にたたかっている村上被告を守り、また村上被告とともに、疑いをかけられている「党を守る」こと、ここに私たちの闘いの意義があるのだ、と。  この場合、真相の一部または全部を知り(人によってはそのために疑問や不信を持ち)、逮捕されて硬軟取りまぜての追及をうけた「関係者」たちの大多数は、突きつけられた真相の前に「没落」した。
 だが、「党のために!」といういわゆる「階級的良心」の立場に立つ限り、没落したひとびとは一転して卑劣な階級的裏切り者であり、同時に真実を裏切った嘘つき、背徳者として指弾される。あるいは、直接に指弾されなくとも、自分自身、生涯この「人格的破産」の意識を背負わされて生きる運命に置かれる。したがって、この「階級的立場」は、別の終身的な人間破壊を生み、今もそれを永続させているのである。  こうした「裏切り者」史観は、多くの場合、同時に真理破壊的でもある。例えば検事側証人となった高安知彦氏は彼の公判の最中に無実の罪(無届け集会での警官に対する公務執行妨害罪という)で私たちの友人が裁判にかけられていることを私を通じて知った時、その際、警官の「公務執行」を妨害したのは自分である、と私に告げ、その友人を守るために、自分の公判では自分を追及する立場にあった杉之原舜一弁護士の、弁護側証人として立つことを引受け、その結果、友人は無罪判決となった。
 「関係者」の中国亡命もやはり「党のため」であって、彼等の安全のためではなかった。中心とされた三名のうち、二名は中国で客死し、一名(鶴田倫也被告)は、帰国の望みもなく、中国に残されている。国交回復後帰国した比較的軽い「関係者」たちも、日中両党の対立の中で除名され、見捨てられた。こうした例の最悪の事例は、伊藤律氏のケースである。畑敏雄氏がいうように、「律を故なくスパイと断罪し、中国共産党に身柄を引き渡して拘禁させた日本共産党こそが最大の加害者である」(22)。ところがそのうちに、伊藤律氏を中国側に拘禁させた最大の責任者である野坂参三が、途方もない密告者・スパイ(恐らくは何重かの)であることが、判明した。だが、奇怪なことに、かっての最高指導者野坂除名直後の第二〇回党大会において、野坂問題は誰の口からも、ただ一言も語られない! それは肌寒くなる精神の風景である。 歴史がタブーであるところでは、政治からモラルが追放される。川口氏の書物が教えるものは、この単純で厳粛な真理である。歴史の暗部の放置を私たちは断じて許してはならない。(終)

(1)川口孝夫「流されて蜀の国へ」[自費出版、二五〇ページ。以下、川口著と略。同書を入手するためには、札幌市中央区北二条西三丁目、アテネ書房〔電話〇一一(二二一)六五三四(代)・FAX〇一一(二二一)六五三三〕に申し込むとよい]。
(2)北大法文学部政治学科を卒業して党札幌委員会ビューロー員となり、白鳥事件後離党してのち逮捕され、転向して検事側証人となった追平雍喜氏の著書「白鳥事件」(日本週報社)によれば、川口氏は事件当時札幌委員会「軍事委員長」だったとされている(同書、171ページ)が、川口氏は氏の著書刊行直後の「北海道新聞」とのインタビューでは、「私は『軍事委員長』ではなかったが、軍事の実務を担当していました。」と述べている。また追平氏著での佐藤直道証言では、札幌委員会の軍事委員長は村上国治氏であり、川口氏は道委員会の軍事委員長とされている(107〜109ページ)が、川口氏の著書では、自分が1951年11月から52年7月までの期間、党北海道地方委員会ビューローのもとで軍事部門の仕事についており、この期間の道ビューローの軍事部門の責任者は輪田一造氏であって、私はその指導のもとで仕事をしていた、と記している。
(3)追平著書、二〇五−二〇六ページ。 (4)『北海道新聞」一九九七年六月八日号第一面。 (5)川口著、二五一ページ。 (6)同書、六ページ。 (7)同書、八ページ。 (8)同書、五〇ページ。 (9)同書、五一ページ。 (10)B.R.Mitchell:International Historical Statistics,Africa,Asia & Oceania1750-1993,3rd Edition pp58-62 (11)川口著、一四三ページ。 (12)同書、一七一ページ。 (13)同書、一四九ページ。

(14)「毛沢東の私生活」上(文春文庫、三八六ページ)。
(15)川口孝夫『流されて蜀の国へ』(自費出版)。同書を入手する方法を再度紹介するならば、札幌市中央区北二条西三丁目、アテネ書房駅前支店〔電話〇一一(二二一)六五三四、FAXは最後の数字が六五三三〕に申し込むとよい。 (16)同書、二四二ページ (17)亀山幸三『戦後日本共産党の二重帳簿』、現代評論社、二二四ページ。 (18)『伊藤律回想録』、文芸春秋社、二六ページ、他。なおこの幹部養成校には、最初は日本人校長(初代校長は高倉テル氏)と中国人の校長〔初代は中連部副部長の李初梨氏が兼任。伊藤律氏によれば中連部は野坂・宮本路線に近く、徳田・伊藤路線に反対で、伊藤律氏に対する中国での監禁―逮捕の発端となった野坂の抜き打ち的査問(五二年一二月二四日)の際にも、李初梨氏はただ一人の中国人幹部として出席した〕の二校長制だったらしい。しかし、川口氏が「入学」し