白鳥事件…現代史の証言(1)

「現代史への一証言ーー川口孝夫著『流されて蜀の国 へ』を紹介する」
(『労働運動研究』1999年6月 札幌学院大学名誉教授 中野徹三)

〔目次〕
1、白鳥事件党員の犯行を裏付け 元共産党軍事部門幹部が証言
2、「大躍進」から「文革」までを体験
3、誰の罪か?―「追放」の責任問題をめぐって
4、歴史の暗部は放置されるか?

 中野徹三氏の記事によると、1952年1月に札幌で現職警部が殺害された「白鳥事件」の後に、当時日本共産党北海道委員会の軍事部門幹部だった川口孝夫(カワグチ・ヨシオ)氏が1956年3月密出国して中国に渡り、18年間の亡命生活を送って1973年12月に帰国したが、この川口氏が1998年10月28日、「流されて蜀の国へJと題する回顧録自費出版した。(札幌市中央区北二条西三丁目、アテネ書房。中国でも翻訳され、「蜀国漂流記」と改題され、張建国・段小丁翻訳で「四川人民出版社」から出版、新華書店を通じて全国供給)

 この著書のなかで川口氏は、自らの関与は否定しつつも、事件直後に複数の「関係者」から事実と経過を知ることができたこと、その内容は、同事件の首謀者とされ、殺人罪で懲役20年の実刑判決を受けた同党札幌委員会委員長・故・村上国治氏らによる白鳥警部殺害の共同謀議などを裏付けた一部脱党党員の検事調書の供述内容と、「基本的に一致している」と記している。
川口氏は、当時の日本共産党札幌委員会の「軍事委員会」の中心メンバーであり、こうした立場にあって、逮捕・脱党した党員ではない人物が、このように発言した意味は大きい。

 白鳥事件とは、1952年1月21日夜、当時札幌市警警備課長だった白鳥一雄警部が、自転車で帰宅途中の路上で、やはり自転車に乗っていた男に背後から拳銃で射殺された事件である。
 1951年秋から1952年にかけての時期は、日本共産党朝鮮戦争期の半非合法体制下で51年10月開かれた第五回全国協議会(五全協)において「51年綱領」を採択し、武力革命路線=軍事方針を立てその実施に移った時期で、北海道でも1951年12月には赤ランプで列車を止めて石炭を奪取しようとした「赤ランプ事件」がおこり、年末には札幌市役所に「自由労働者」の一団が「餅代よこせ」の要求で坐り込むなどの事件が相次いだ。札幌市警はこれらの事件に厳しい弾圧をもって臨み、多数の日共党員を逮捕したが、これに対して高田市長、白鳥警部、塩谷検事等に数百通の「脅迫ハガキ」が送られ、さらに1952年の新年早々には「新年にあたり警察官諸君に宣言する」という題のビラが主要警察官の役所や家庭に送られた。後者の「対警宣言」には、「白鳥其の他の敵、新しい敵を一人一人葬り去ることを宣言する」という字句が、記されていた。
 こうした報道が連続するなかでおこつた白鳥警部射殺事件は、全道と札幌全市に大きな衝撃を与え、事件の翌朝、「見よ天誅遂に下る!」という見出しのビラが北大正面前を含む札幌市内の数カ所で撒かれ、「自由の凶敵白鳥市警課長の醜い末路こそ全ファシスト官憲共の落ゆく運命である」という見出しで、「市民弾圧の総責任者」白鳥警部の殺害を公然と正当化し、「自由を守る闘い」への市民の決起が呼びかけられていたが、この天誅ビラの末尾には、「日本共産党札幌委員会」の署名が、大きく印刷されていた。
 事件の様相は、後に日本共産党自身が「極左冒険主義」と規定した戦術が集中的に実施された1951年〜52年の諸事件には共通している。しかし、白鳥事件には、予告―実行―実行宣言という、確信犯による政治的テロルの常道を連想させる点において、類似した他の事件から明確に区別する、といってよい。一例として「天誅ビラ」(その製作と配布が一部共産党員以外の何者かによってなされたとは、誰も主張していない)ほど率直公然と警部殺害を正当化した文書は、他のどの事件にも類例を見ない。
 当然ながら官憲側は、事件の背後に党組織、一群の党員とシンパが存在すると想定して、全力を挙げてその追及に取りかった。
 この追及は、主としていわゆる「ニコヨン」(自由労働者)と、北海道大学の学生の党組織、札幌市委員会とそのもとのいくつかの経営細胞と居住細胞に集中したが、一部は高校生の民青グループにも及んだ。
 その結果は、悲惨であった。正確には確認できないが、直接間接に事件に関係ありとみなされたおよそ50数名の党員あるいはシンパが逮捕され、逮捕を免れた者のうち、10名が中国に亡命した。
 被逮捕者のなかから、複数者(追平著書によれば朝鮮人一名を含む三名、そのひとりは高校生)が自殺または変死を遂げ、他に少なくともひとり(北大生)は、精神異常を来して入院した。
 被逮捕者のおよそ三人に二人は、結局はなんらかの形で事件への関与を認めて自白し、一部は(追平氏を含めて)検事側の証人になった。追平氏の著書は、(1959年の時点で)被逮捕者のうち、党から離脱した者の数と、離脱しなかった者の数を、36対19としている。
 中国に亡命した10名のうち、7名は日中国交回復後帰国、白鳥殺害の実行犯とされた佐藤博容疑者と、宍戸均中核自衛隊長の2名が数年前に中国で客死したことは確実であり、当時北大生でいまなお中国に残留している鶴田倫也氏は一昨年の6月7日、北京での時事通信記者とのインタビューに応じてこの点を認めた上、さらに「―もし、このままであれば、事実はやみからやみに葬り去られる。何も話さないのか」と問われ、「それはいつか明らかにしますよ。今はその時期ではない。」と答えている。 なお、首謀者と目されて1952年10月逮捕された村上国治氏は、一貫して無罪を主張していたが、1963年10月、最高裁で懲役20年の刑が確定し、1977年に刑期満了で出獄した。氏はその後も再審を請求し続けたが、1994年11月、埼玉県の自宅で焼死するという、悲劇的な最後を遂げている。 事件はなお多くの謎を秘めながら、今に到るまで多数のひとびとの運命を暗く蔽っているる。
 川口氏夫妻は、先に挙げた10人の「亡命者たち」の内の2人である。しかし夫妻の「亡命」とは、実は六全協による統一の8カ月後(1956年3月)の日本共産党による、中国への擬装された強制追放にほかならなかった。本書は、この経過と、17年間の中国滞在期の夫妻の体験を記したものであり、「大躍進・人民公社」期から文革期までの中国の実情の一部を亡命者から見たひとつの史的記録になっているとともに、終章「私と白鳥事件」において、氏の「蜀の国」(四川省)への「追放」の真因となった白鳥事件と氏とのかかわりについて、簡単ながら重要な証言を行なっている。
 私は、本年三月末をもって漸く大学の仕事から解放されたので、今後はSTASI(旧東独保安警察)の研究をまとめるかたわら、私の大学時代の友人多数が犠牲となった白鳥事件について、その政治的背景を含めて、全面的に解明したいと考えており、目下その準備を進めている。そしてそれは、スターリン主義の究明を生涯的課題とした私の人間的義務でもあると自認している。本稿は、川口氏の今回の著作の紹介と、その若干の検討を通じての、その準備作業の一つである。

「大躍進」から「文革」までを体験
 川口氏によれば、氏は当時の日本共産党統制委員梶田茂穂氏から五六年三月(亡命ではなく)「仕事をするために中国に行ってもらう。北京で党の責任者に会って仕事を決めてもらい、仕事が終われば日本に帰ってもらうことになる」(5)、といわれてその言葉を信じ、五六年三月に「第一勝漁丸」で焼津港から夫人同伴で非合法に中国に渡航した(いわゆる「人民艦隊事件」の一部。なお夫婦で密航したのは、川口夫妻だけらしい)。
 中国に着いた川口氏は、中連部(中国共産党中央対外連絡部)が管理する北京市内の「招待所」に収容されたが、そこでは間もなく、氏に対する日本共産党の査問が始まった。査問は袴田里美氏の部下の羅明氏(日共党員の中国人)によって二カ月半行なわれたが、その一つは「白鳥事件」関係で、「同事件に対する私の関与の程度を追及された。もう一つは私と志田派との関係である。」(6)
(6)  同年六月、川口氏は北京郊外の「人民大学分校」に送られたが、これは「ソ共、中共、日共の三者が協力して作った日本革命のための幹部養成学校」であり、多数の日本人がいたが、その中には抗日戦争で八路軍に協力した人、満鉄等にいた戦前の左翼、解放後中国に残っていた人々と共に、一九五〇年後に日共から送られてきた人々も含まれていた、と氏は述べている。  ところで私は、この川口氏の本を石室清倫氏に送ったのち、氏のお宅で感想をうかがった(以下の各所で紹介する石堂氏の発言は、すべて氏の承認を頂いたものであることをここで附記しておく)が、氏はこうした「日本革命幹部養成学校」の代表的なものが「天津日本人学校」であって、そこには土橋一吉、犬丸義一、工藤晃などの諸氏もおり、またここには満鉄に勤務し周恩来の信頼が厚かった横川次郎氏も教師として活動していた、といわれる。それで私は川口氏に、この北京郊外の「人民大学分校」と「天津日本人学校」との関係について質問したところ、川口氏は「天津日本人学校」については耳にしたことはないが、土橋をはじめ上記の人々は、間違いなく「人民大学分校」にいた、と答えられた。日本共産党史を研究するためには、戦前の「コミンテルン日本支部」はもとよりのこと、戦後においても、ソ連共産党ならびに中国共産党との間の複雑な組織的・思想的諸関係の全面的解明なしには前進できない。  さて、川口氏がこの学校に着くと、すぐに校長の連貫氏から「情勢に基本的な変化がないと、日本には帰れない」と宣告された。氏が「情勢の基本的変化」の内容について問うと、それは「(日本で)革命に勝利するような情勢の変化」だ、という。こういうことを、袴田氏はじめ北京在住の日共指導部は、川口自身にはまったく会うことなく、中国側に言わせたのであり、氏は「党の策謀にはめられたという怒りで一杯であった。」(7)  この学校では、哲学、中国革命史、社会発展史などが教えられたが、生活は贅沢そのものだった、らしい。この学校は別の意味の「情勢の変化」により五七年夏に廃校になり、ここにいた日本人の大部分は、いったん中国全土に分散したのち、翌五八年の七月に引き揚げ船の「白山丸」に乗船して帰国した(先の工藤晃氏等も)。しかし、川口氏夫妻を含むいわゆる「白鳥事件関係者」は中国に残される。  この際、これらの人々の中国「残留」について、日共と中共の間で何らかの協定が結ばれていたことは、確実である(そしてこの時の日本共産党とは、もちろん六全協後の統一した党である)。だがその内容は、当事者の川口氏にもまったく明らかにされなかった。