関東大震災・朝鮮人中国人虐殺事件・人権救済申立・勧告(4) 日弁連

2 自警団による虐殺に関する国の責任
 自警団による朝鮮人虐殺の事実は、民間人による犯罪行為ではあるが、その背景と原因を精査するならば、国の責任に言及せざるを得ない。

(1)朝鮮人に関する虚偽事実の流布(流言飛語)
 そもそも、朝鮮人が放火、爆弾所持・投擲、井戸への毒物投入等の不逞行為をおこなっているという喧伝は、客観的事実ではない流言飛語であった。少なくとも、各所で多数のそうした行為が行われたり、組織的な行為が行われたという形跡はない。 これが流言飛語であったことは、以下のとおり当時の警察文書の記載からも明かな事実である。
 例えば、警視庁編『大正大震火災誌』(資料第1の1『現代史資料(6)』39頁以下)は、「鮮人暴動の蜚話に至りては、忽ち四方に伝播して流布の範囲亦頗る広く」「流言蜚語の、初めて管内に流布せらりしは、9月1日午後1時頃なりしものの如く、更に2日より3日に亘りては、最も甚しく、其種類も亦多種多様なり。」(同39頁)と記載し、以下時々刻々の流言飛語の状況と内容を摘示し、その取締状況と朝鮮人保護の状況に至るまで詳細に記録している。 これは、鮮人暴動・不逞行為などの言説がおよそ客観的事実にもとづかない流言であったことを直截に物語るものである。

 大正12年9月の部分、3日の欄に、次の記載がある。「区長の引続ぎ(ママ)をやる。(中略)と決定。一切を渡す。 夜になり、東京大火不逞鮮人の暴動警戒を要する趣、役場より通知有り。」(資料第1の6、資料第4の10『いわれなく殺された人びと』(千葉県における追悼・調査実行委員会編)6頁)。
 これは、自警団を組織して不逞鮮人の警戒に当たることになった経緯が、役所からの通知によるものであることを示している。その結果、軍の指示により、拘束されていた朝鮮人を、地域の自警団貝が引き取って殺害するという事態が引き起こされるのである。 この事実も、自警団による朝鮮人虐殺が、内務省警保局からの命令と、これによる地域(村役場)毎の指示に基づくことを示している。

(6)関東戒厳司令官の告諭及び命令について
 前述のとおり、震災発生直後の9月3日、戒厳令が発せられた。この勅令第401号戒厳令に基づく関東戒厳司令官告諭(大正12年9月3日)は、次のように述べている。
 「・・・本職れい下の軍隊及び諸機関(在京部隊のほか各地方より招致せられたるもの。)は、全力を尽くして警備、救護、救じゅつに従事しつつあるも、この際地方諸団体及び一般人士も、また、自衛協同の実を発揮して災害の防止に努められんことを望む。
(ア)不てい団体ほう起の事実を誇大流言し、かえって紛乱を増加するの不利を招かざること。」(資料第4の7『関東大震災から得た教訓』陸上幕僚総監部第三部)9頁)。
 また、戒厳令司令官令(大正12年9月4日)は、次のように述べている。
「軍隊の増加に伴い、警備完備するに至れり、よって左のことを命令する。
(ア)自警のため、団体若しくは個人ごとに所要警戒法をとりあるものは、あらかじめ、もより警備隊、憲兵又は警察に届出でその指示を受くべし。
(イ)戒厳地域内における通行人に対する誰何、検問は、軍隊憲兵及び警察官に限りこれを行うものとす。
(ウ)軍隊、憲兵又は警察官憲より許可するにあらざれば、地方自警団及び一般人民は、武器又はきょう器の携帯を許さず。」(資料第4の7 陸上幕僚総監部第三部著『関東大震災から得た教訓』15頁)

 これらの告諭及び命令は、「不てい団体ほう起の事実を誇大流言し、かえって紛乱を増加する」事態の存在を前提にしており、こうした状況が生じてしまっていたこと(ないしその懸念が生じていたこと)を示している。 そして、自警団を初めとする一般人による、通行人に対する誰何、検問、武器・凶器の携行が行われていたところ、軍隊による警備完備に伴って、そのような事態を変更しようとしたことを示している。
 このように不逞団体蜂起の流言飛語の流布という状況は自警団による虐殺行為の前提として存在していたのであり、戒厳司令官はこのような事態を認識したうえで、その転換を図る挙にでたのである。
 これは、こうした事態が国家的関与と国家的政策の支配の下におかれていたことを示しているともいえる。

(7)流言飛語の発生・自警団創設に関する国の関与と、自警団による朝鮮人虐殺
 朝鮮人の不逞行為云々はまったく事実ではないにもかかわらず、国(内務省警保局)は、 朝鮮人が放火・爆弾所持・投擲・井戸への毒物投入等をおこなっているという誤った事実認識および「周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加え」るべきであるという指示を、海軍送信所からの無線電信により全国に伝播させ、また、電報や県の担当者との会合において各県担当者に伝達した。これにより、各県の地方長官は、通牒を発して管下の各部役所、さらに管下の町村に伝達した。すなわち、内務省警保局と県の地方課長の打合せの下に、朝鮮人による不逞行為の発生という認識と、これに対する監視と取締りの要求が、 県内務部、郡長、町村長のルートを通じて伝達され、消防、青年団を通じて自警団を組織し、自衛の措置を講ずることを指示した。 これが各地における朝鮮人殺害等の虐殺行為の動機ないし原因となったものである。
 上にみたとおり、埼玉県においては、『東京における震火災に乗じ、暴行を為したる不逞鮮人多数が、川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、而も此際警察力微弱であるから、各町村当局は在郷軍人分会員、消防手、青年団と一致協力してその警戒に任じ、 一朝有事の場合には速に適当の方策を講ずるよう、至急相当の手配相成りたし』との通牒により、各町村において自警団が結成され、また、朝鮮人は東京において暴行をなし、埼玉県下においてもいかなる蛮行をなすやもしれないとの誤った認識を自警団はもちろん地域住民に広くひろめた。 そして、これが自警団員等において朝鮮人の殺害行為等の動機を形成する重要な要素となったものである。
 内務省警保局との打合せに基づいて県内務部長から各部役所、各町村へと通牒が伝達指示されたことが現在はっきり確認できるのは埼玉県の場合にとどまるが、 同様にして、内務省警保局長の打電は各町村の末端に至るまで徹底されたと考えられ、これにより、朝鮮人の放火、爆弾所持などの「不逞行為」の存在は、中央政府の治安当局の指示・命令として確認された事実として周知徹底され、各地において朝鮮人に対する監視と取締りの体制が採られたのである。「武装」という指示は具体的に示されているわけではないが、当時の状況からすると、それが前提とされていたと考えられる。
 各県庁に県知事の掌握する警察部があり、市と郡役所所在地に警察署、その他の町に警察分署、村には巡査駐在所が置かれた。さらに警察だけでは力が及ばないときには、自警団が補助警察として出動した。なお首府の警察としては警視庁があり、これは警保局と並び、内務大臣の直轄であった。
 このように、各県の警察部は上記のように内務省警保局長の下に位置し、その指揮下にあったのであり、警保局からの指示によって、警察組織はその指示どおりに動いた。

(8)当時の政府機関における朝鮮人に対する考え方
 なお、政府機関において朝鮮人に関する虚偽の事実を伝達させ流言蜚話を生じしめた背後には、朝鮮人を危険視する考え方があったことを留意すべきである。
 1910年の日韓併合以後、韓国国内において反日独立運動は根強く存在し、1919年3月1日を期して始められた三・一独立運動は、全国土に広がり、200万人以上の朝鮮人が参加した。この運動は7500人を越す死亡者、15000人を越す負傷者を出して終わったが、日本の為政者には強烈な印象を残した。

表一 運動参加者数と被害状況
 【参加者数][死亡者数】 【負傷者数】[逮捕者数]
京畿道 665900 1472 3124  4680
黄海道 92670  238  414  4218
平安道 514670 2042 3665 11610
咸鏡道  59850  135  667  6215
江原道  99510  144  645  1360
忠清道 120850  590 1116  5233
全羅道 294800  384 767  2900
慶尚道 154498 2470 5295 10085
懐仁・竜井・奉天 48700 34 157 5
満州・その他 2023098 7509 15961 46948

注−朴殷植《韓国独立運動之血史》(上巻)による。朴殷植の統計では道別統計と総計が一致しないが、郡別統計に空欄が多いため、総計をそのままとった。 被害にはこの他にも教会の毀焼47や、毀焼民家715が数えられている。
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 日本においても、朝鮮人の参加する労働運動、反日運動は、規模の大小は別として存在し、関東大震災の直前にあたる1921年から1922年にかけて東京朝鮮労働同盟会や大阪朝鮮労働同盟会が結成され、1922年5月のメーデーには在日朝鮮人がはじめて参加するという状況があった。
 これに対し、1922年刊行の内務省警保局編朝鮮人概況では「最近内地在留鮮入学生中漸次共産主義に感染して内地社会主義に接近するものあり」とされ、同1923年5月14日付内務省警保局長の「朝鮮人労働者募集に関する件依命通牒」は、在日朝鮮人は「往々にして社会運動及労働運動に参加し団体行動に出んとする傾向の特に著しきものあり」と、各庁府県長官に警戒を促している。また、この年の5月1日の東京メーデーに際しては、警察は会場入口に「鮮人掛」「主義者掛」などを置いて彼らを理由なしに検束するなどした。

(9)マイノリティー保護に関する国際的認識
 本件の虐殺に関する国の責任を論ずるにあたって、当時の国際的認識は次のようなものであった。

 ①日本政府は、国際連盟規約を検討する場で、アメリカに移住した日系人への差別を批判し、日系人を保護する目的で、国際連盟規約に人種平等条項を含ませるべきことを主張していた。(大沼保昭国際法国際連合と日本427ページ所収「はるかなる人種平等の思想」)
 朝鮮人、中国人に対する大規模、深刻な虐殺被害がおこった背景には人種差別があったことは否定できないところであり、かかる国際的な場で差別防止を主張していた日本政府が国内においてマイノリティー保護の責任を負っていたことは否定することはできないことは見やすい道理である。

 ②常設国際司法裁判所は、ドイツがポーランドに返還した領域におけるドイツ系定住者事件(1923年) アルバニアの少数者学校事件(1935年)などにおいて実質的平等についての原則を発表した。
 これは、後に国連憲章1条3、55条に盛り込まれる人種差別の防止という国際規範が、すでに古くから人類共通の規範として確認されていたことを示すものである。
 このように、国のマイノリティー保護責任、および、人種差別を規律する国際規範は、この当時から無視できない規範として存在していた。

4 結論
 以上の事実および背景事情から、少なくとも埼玉県においては、国(内務省警保局)が地方長官(各県内務部)を通じて通牒を発し、これにより各郡ないし各町村に至るまで、震災に乗じた「不逞鮮人」による放火、爆弾投擲、井戸への毒物投入などの不法行為や暴動があったとの誤った情報を、内務省という警備当局の見解として伝達・認識せしめたこと、これに対する警備と自警の方策(自警団の結成)を講じるように命じたことが、民衆の朝鮮人への暴力と虐殺の動機になったことが認められる。
 したがって、自警団による朝鮮人虐殺について、戒厳令宣告の下、殺害の実行主体である自警団を結成するよう指示し、また、朝鮮人に対する殺意を含む暴行の動機づけを与えた点で、国の責任は免れない。