関東大震災・朝鮮人中国人虐殺事件・人権救済申立・勧告(3) 日弁連

第4 自警団による虐殺
1 事実
 関東大震災における朝鮮人虐殺の、相当な部分は民間人によるものであった。
 民間人による虐殺行為は、いわゆる自警団によるものであったことは、以下のとおり、様々な資料の示すとおりである。

(1)新聞報道
 当時の新聞報道記事によれば、東京日々新聞(大正12年10月21日)は、船橋町の虐殺について「鮮人の行衛不明にぢれ気味であった船橋自警団初め八栄村自警団など約150名は…全部を殺害し」(資料第1の1、『現代史資料6』207頁)、「保土ヶ谷久保山方面で行われた青年会自警団等の殺人事件に関し詳細聴取」(同208頁)等を報道している。 同様に、読売新聞(大正12年10月21日)は「子安の自警団員の多くは日本刀を帯いて自動車を走らせ…五十余の鮮人は死体となって鉄道路線に遺棄された」(同210頁)と報道し、国民新聞大正12年10月12日)は「暴行自警団員及陰謀事件の犯人検挙」(同211頁)を報じるなど、当時の多数の新聞記事が自警団による朝鮮人殺害事件を報じている。

(2)刑事確定記録
 さらに事実関係の確実性が信頼できる資料としては、刑事確定記録として保管されている刑事事件判決が挙げられる。 以下に、判決文のうち罪となるべき事実として判示された虐殺行為の部分を抜粋する。

? 本庄事件(浦和地裁判決1923年11月26日)(資料第4の1)
 「当時極度に昂奮せる群衆は同署(注:本庄警察署)構内に殺到し来りて約三千人に達し同夜中(注:9月4日夜)より翌五日午前中に亘り右鮮人に対して暴行を加え騒擾中
一、被告Aは同日四日同署構内に於て殺意の下に仕込杖(証拠略)を使用し他の群衆と相協力して犯意継続の上鮮人三名を殺害し

一、被告Bは同日殺意の下に同署構内にて鮮人を殺して了えと絶叫し長槍(証拠略)を使用し他の群衆と協力して犯意を継続の上鮮人四五名を殺害し

一、被告Cは同月五目同所に於て殺意の下に金熊手を使用し他の群衆と相協力して鮮人一名を殺害し

一、被告Dは同月四日同演武場に於て殺意の下に木刀を使用し他の群衆と相協力して犯意を継続の上鮮人三名を殺害し尚同署事務所に居りたる鮮人一名を引出し群衆中に放出して殺害せしめ(以下略)」

? 神保原事件(浦和地裁判決1923年11月26日)(資料第4の2)
 「約一千の民衆は忽ち諸方より来りて該自動車(注‥保護した朝鮮人を乗せた警察車両)に蝟集し其進路に粗朶を横えて内二台を停車せしめたる上 同日夜半迄に亘り車中の鮮人に対し暴行を加えたる際右群衆に加りたる被告A、B、C、E、F、H、?、K、L、M、N、Sは各粗朶棒又は竹棒等を以て鮮人一名乃至数名を殴打し被告0、P、Q、Rは『ヤレヤレ』と叫びて群衆を声援激励し以て孰れも他に率先して該騒擾を助勢し」
  (中略)
 「右取調の終了するや忽ち該鮮人に対し暴行を加え騒擾をなしたる際被告G、J、Lは右群衆に加りたる上Gは粗朶棒を以て該鮮人を殴打し Lは小刀を以て該鮮人を突き、Jは『ヤレヤレ』と叫びて群衆を声援激励し以て執れも他に率先して該騒擾を助勢したり(以下略)」

? 寄居事件(浦和地裁判決1923年11月26日)(資料第4の3)
 「被告Aは戊(ママ)(判決63貢確認)等百余の群衆に対し鮮人は吾人同胞の仇敵なり桜沢村に於ける木賃宿真下屋にも鮮人滞在し居れる筈なれば、何時不逞の所行に出づるや計り知るべからず予め之を襲撃殺害するに如かざる旨を演説し以て群衆を扇動したるより被告B、C、D、E、F、G、J、?、L、M等及群衆は之に応じAと共に各日本刀竹槍鳶口梶棒等凶器を携え前記真下屋に向い
  (中略)
 一、被告Aは前記鮮人甲が畄置場より玄関辺に逃走し来るや同所に於て自己有に係る処携の日本刀(証拠略)にて同人に対し二回斬付け尚右騒擾中ヤレヤレと叫び群衆の暴行を扇動し

 一、被告Bは右甲が畄置場より分署前の庭に引出され群衆の乱撃を受け死に瀕し居りたる際自己所有に係る所携のイゴの棒(証拠略)にて同人に対し一回殴打し

 一、被告Cは同所に於て同様瀕死の状態に在りたる右甲に対し自己所有に係る所携の檪の棒(証拠略)にて二回殴打し(以下略)」

? 熊谷事件(浦和地裁判決1923年11月26日)(資料第4の4)
 「一、被告Aは前記八丁地内に於て熊谷町消防組頭乙より鮮人十名の遞送方を託せされ乏が護送中内二人を殺害する目的を以て、故意に当時避難民の収容所なる同町熊谷寺境内に引率し行きたる上同所に於てCD等と共謀の上目本刀(証拠略)を使用し他の群衆と相協力して犯意継続の上鮮人二名を殺害し

 一、被告Bは同日同町熊谷警察署附近の街路に於て殺意の下に手斧を使用し他の群衆と相協力して犯意継続の上鮮人二名を殺害し

 一、被告Cは同日同町熊谷寺境内に於て被告Aの犯行に加担し同人及被告Dと共謀の上殺意の下に日本刀 (証拠略) を使用し他の群衆と相協力して鮮人一名を殺害し

 一、被告Dは同日同町熊谷寺境内に於て被告Aの犯行に加担し同人及被告Cと共謀の上殺意の下に日本刀(証拠略)を使用し他の群衆と相協力して鮮人一名を殺害し尚犯意継続して、同日熊谷警察署附近の街路に於て殺意の下に右日本刀を使用し他の群衆と相協力して鮮人一名を殺害し(以下略)」

?D 片柳事件(浦和地裁判決1923年11月26日)(資料第4の5)
 「鮮人甲が同村大字染谷地内に逃げ入り消防小屋附近に差掛るや折しも同所に警戒し居りたる乙の為に覚知せられて追跡を受け同人方裏手の里道を逃走中圖(はか)らず不逞鮮人の来襲なりと聞き伝え其場に駆付け来りたる被告A及びBの両名と出会し Aは槍(証拠略) Bは日本刀(証拠略)を持て右甲を追跡し同染谷字八雲耕地地内に追迫り同所丙方附近の里道に於て甲が後方に振向くやAは前記の槍にて忽ち同人の胸部を突刺し甲が逃れて附近の薑畑に入り畑構に転倒するや Bは前記の日本刀にて其左肩辺を斬付け同時にAは右槍先にて甲の前頭部辺を殴打したるも同人は直ちに起上がり更に十数間を距る同所甘藷畑に逃入り再び転倒するや 被告CDE等も亦不逞鮮人の襲来なりと聞き其場に駆け付け来り同甘藷畑に於てDは日本刀(証拠略)を持て甲の右腕辺に Cは日本刀(証拠略)を持て其腎部辺に各斬付け Eは槍(証拠略)を持って其後頭部辺を突刺し 其結果甲は重傷を負い救護の為同郡大宮町萩原病院に収容せられたるも同日午前九時頃死亡するに至りたるもの(後略)」
 また、前橋地裁1993年11月14日判決(資料第4の6)は
警察署に保護されていた朝鮮人に対する殺人等事件について、「自警団を組織して各自警戒に努めて居たる」旨を判示している(同16丁)。
 東京をはじめ、関東近県の裁判所において、同様の刑事裁判が行われている (次項参照)。
しかし、残念ながらこれらの刑事確定記録は、当委員会の調査によっても閲覧・謄写することが認められず、引用することができなかった。

(3)刑事裁判についての新聞報道
 上記のとおり、浦和地裁と前橋地裁における裁判以外は、刑事記録の閲覧謄写ができなかったが、上記のような刑事訴訟の内容は、当時の新聞によって多数報道されている。
 判決謄本を見ることができなかった地域においても、元立教大学教授山田昭次氏の調査によれば、当時の新聞報道等によって以下のとおりの判決が出されていることが分かる。
?@東京地方裁判所管内
 花畑事件(被告人10名)
 西新井村与野通り事件(被告人2名)
千住町事件(被告人1名)
 南千住町事件A(被告人2名)
 南千住町事件B(被告人7名)
 巣鴨町宮下事件(被告人1名)
 千歳村烏山事件(被告人13名)
 平塚村蛇窪事件(被告人3名)
 世田谷町事件(被告人1名)
 五反田事件(被告人9名)
 荒川放水路事件A(被告人1名)
 荒川放水路事件B(被告人1名)
 吾濡町亀戸事件(被告人2名)
 吾滞町大畑事件(被告人1名)
 吾滞町請地事件(被告人5名)
 亀戸町遊園地事件(被告人5名)
 亀戸事件(被告人6名)
 南綾瀬村事件(被告人11名)
 寺島村事件(被告人12名)

?A千葉地裁管内
 小金町事件(被告人1名)
 馬橋事件A(被告人6名)
 馬橋事件B(被告人2名)
 馬橋事件C(被告人6名)
 浦安町堀江・猫実事件(被告人10名)
 流山事件(被告人6名)
 船橋事件A(被告人14名)
 船橋事件B(被告人7名)
 中山村事件(被告人8名)
 千葉市事件(被告人1名)
 佐原事件(被告人9名)
 滑川事件(被告人14名)

?B宇都宮地裁管内
 間々田駅事件(被告人8名)
 石橋駅事件(被告人7名)
 小金井駅事件(被告人7名)

?C横浜地裁管内
 鶴見町事件(被告人4名)
 横浜市公園バラック事件(被告人1名)

(4)自警団に関する自衛隊および警視庁の資料
 陸上幕僚総監部第三部署『関東大震災から得た教訓』(資料第4の7)は、
「震災発生直後の状況」として、「鮮人の暴動、津波の襲来などの流言、飛語が流布されたので、期せずして隣保相寄って自らを守り、生きるために物資を奪う等一時騒じょう化した」 とし、続いて「じ後の状況」として「引続き自警団の暴行、食料倉庫の襲撃等混乱を極めた」(同3頁)と述べており、当時の騒擾的状況が自警団によって作り出されたことを強調している。
 自警団の実態について、以下同書から引用する。「自警団の組織は必ずしも一様でなく、おおむね各区、町村の青年団在郷軍人消防団等を中心とし、これに町会、夜警、親睦会を加えたもので組織された」(同14頁)。自警団の目的は、「当初においては各自の生命、財産、自由の防衛及び相互扶助並びに罹災者の救護にあったが、流言が一度出るともっばら鮮人の来襲に備えるのをもって最大の目的としたようである」(同書14頁)。「9月16日の調査による団体数は、市部526、郡部583である。」(同書14頁)。
 警視庁警備部と陸上自衛隊東部方面総監部による資料でも、同様の記載がある。「9月16日の調査によれば市部に562、郡部に583団体が組織され、多い団体は110名、少ない団体30名であったが、逐次その数を増し、10月20日ごろには市部774、郡部810、合計1584団体の多数に上り、また1団の数も多いものは750名という大きな組織をもつものもあり、これがため統制も乱れ、過激粗暴の行動に出るものも少なくなかった。」(資料第4の8、警視庁警備部、陸上自衛隊東部方面総監部編『大震災対策研究資料』70頁)。
 「団員は各自刀剣、木刀、こん棒、竹やり、銃、とび口、くわ、玄能、かま、のこぎり等あらゆる凶器を携帯し、町村の要所および出入口に非常線を張り、通行人に対し、厳重な尋問を行ない、朝鮮人の疑いあるものは警察署に同行し、あるいは迫害を加え、中には勢をたのみ暴行、りゃく奪、殺傷事件をひき起こすものもあり、また、団体加入を強要したり、寄付金を強要するなど、専横をきわめる団体も現れるにいたった。」(同書同頁)。
 「民衆は自警団を組織して朝鮮人に対して、猛烈な迫害を加え」た(同書67頁)。
 震災後の犯罪発生数については、「9月、10月に殺人犯が激増して漸次減少している9月中の殺人は、震災直後の9月1日から3日までに多発しており、これらの原因は、鮮人来襲に対する自警団の凶暴的行為がその最たるものであった。」(同書72頁)
としている。