在日コリアン人権運動の理論構築について(17)

第5章 多元化民主主義か多文化共生か
5.1 問題意識
 1995年民闘連は、4年にわたる改革論議を経て、組織改革を断行した。民闘連をいったん解散し、即日在日コリアン人権協会を結成したのである。民闘連の解散にあたっては、民闘連の一切の業務を在日コリアン人権協会に引き継ぐこともあわせて決定した。いわゆる発展改組をめざしたのである。
 しかし、解散、発展改組を決定した大会に、民闘連の会長、顧問は出席しなかった。また川崎、高槻は結果として在日コリアン人権協会には合流しなかった。その後、高槻を中心に別途民闘連の再結成を準備したが、結局これも実現できなかった。高槻、川崎もその後連携関係はなくなり、それぞれが分立することとなった。
 在日コリアン人権協会は、民闘連を継いで活動をより発展させたが、1997年事務局全員が一斉退職し、またトッカビ子ども会の多くの指導員も在日コリアン人権協会から離れることとなった。事実上第2回めの分裂である。次いで、2000年在日コリアン人権協会の元役員2名が、在日コリアン人権協会に対する中傷文書を配布し、部落解放同盟大阪府連合会の庇護の下、別組織を立ち上げた。さらに、2002年、在日コリアン人権協会が母体となって設立した社団法人大阪国際理解教育研究センター(略称 KMJ)が、内部混乱の末在日コリアン人権協会から分離した。
 1995年から2002年の短期間に、計4回の分裂、組織混乱を生起したのである。これによって在日コリアン人権協会は、活動、組織ともに大幅な縮小を余儀なくされた。 
 個々の事象には、それぞれ固有の問題もあるが、在日コリアン人権協会の活動路線には、なんらの変化もなかったのにである。しかし、原因はむしろここにあった。民闘連から移行した在日コリアン人権協会の基本理念、それは在日コリアンの自立した闘いであった。企業、行政との闘いにおいても、在日コリアンの雇用と啓発を強く要求し、実現させてきた。そのうねりは年を追うごとに拡大していった。他のマイノリティとの共闘は、必要だが、それはあくまでも各々のマイノリティの自立が前提であり、各々が独自に闘うことにこそ意義の意義が存在するのだ。変わったことといえば、私が活動の中心をおいていた大阪では、従来企業、行政との主要な闘いは、連携関係にあった部落解放同盟大阪府連合会に連絡を取りながらすすめてきたが、在日コリアン人権協会に移行してからは、独自に闘いをすすめてきた。これが部落解放同盟大阪府連合会の態度を一変させた。
 1997年の第2回めの分裂を初めてとして、全ての分裂は部落解放同盟大阪府連合会が、巧妙にかつ露骨に在日コリアン人権協会組織をかく乱し、介入した結果であった。行政権力と癒着し、圧倒的な組織力を持つ部落解放同盟大阪府連合会のなりふりかまわない攻撃には、在日コリアン人権協会はなすすべを失ってしまった。それほどまでに、在日コリアンの自立した運動は、人権運動、人権予算を独占しようとしていた部落解放同盟大阪府連合会にとっては看過できないことだった。マイノリティが自立した運動を展開することがいつの間にか許されない時代に変化していた。部落解放同盟の原点とされる水平社宣言の精神さえ消え失せているかのようであった。何かが変化しているのは間違いなかった。
 確かに何かが変化していた。私たちの周辺から私たちの内部にもたらされた変化。それは、多文化共生論である。1997年当時の混乱の引き金となったのは、その年の2月に開催された在日コリアン人権協会の交流集会(「在日朝鮮人韓国・朝鮮人の未来と人権研究集会」)である。集会の企画は、主として事務局専従者を中心とした若手のメンバーが担当した。印刷される直前の集会案内には、それまでの交流集会とは大きく変わった内容が企画されていた。分科会の大半は、在日朝鮮人問題ではなく、およそ部落問題以外の日本のマイノリティ問題で埋め尽くされていた。ジェンダー、障害者、同性愛、はもとより骨髄バンク問題も報告までもが企画されていたのである。私たちが従来これらの問題に取り組んだ経験もなく、また今後取り組む方針さえない状態で、このような集会を開催するのは、無責任であると指摘したが、納得させることはできなかった。すでに報告者の承認を得ていたことから集会はそのまま開催された。混乱の最中、事務局のメンバーとわずかながら話し合う機会を得たが、彼(女)らが主張したのは「闘いの運動論にはついていけない。私たちは、共に生きる関係をつくりたいのだ」というものであった。闘いを否定し、敵であるはずの行政、企業とも、共に生きる関係でありたいというのである。
 組織を辞めていった彼(女)らの大半は活動から離れたが、一部の者は、啓発事業や多文化の祭りなどにかかわっている。闘いを継続している者は誰もいない。
 その後の混乱も、運動で作り上げた営利事業が軌道に乗り始めたとたんに、在日コリアン人権協会に反旗を翻して、離れていった。組織運営の問題もあるが、差別と闘うことに意義を見出さない傾向が知らぬ間に増幅していた。私たちの運動が部落解放同盟と連携してきたことから、部落解放同盟大阪府連合会の影響を強く受けていた。気がついてみれば、部落解放研究所(以下研究所)主催の各種啓発事業の案内文に「私発見」というフレーズが踊っている。自治体や国の官僚、大学教授の講師陣が増え、その分前線で闘っている活動家が減少している。闘いから学ぶのではなく、抽象的概念としての人権を知識として学習する場となっていた。分科会の内容も、部落問題はわずかであり、およそ日本のマイノリティ問題を網羅するものとなっている。部落解放同盟が主催する啓発集会も同様である。1997年の在日コリアン人権協会の交流集会と同じ形態である。在日コリアン人権協会の専従者たちが部落解放同盟に影響された結果であることを示している。
 部落解放同盟は部落差別と闘う組織であったはずのものが、いつの間にか日本のあらゆる差別を扱う啓発団体に変化したかのようである。研究所のメンバーとも交流が深かった在日コリアン人権協会の専従者たちが影響を受けていたのは明らかだった。多文化共生論は、私が過去、手本としてきた部落解放同盟の中ですでに蔓延していたのである。大阪の私たちに限らず、分裂した他の地域の民闘連の仲間たちも影響を受けていた。
 1995年に分裂した民闘連を再建しようと高槻のメンバーが奔走したが、川崎はこれに応じなかった。私が、民闘連の改革を実行しようとして失敗したときと同じ結果となった。すでに川崎は運動の成果として建設した公設置民営のふれあい館を守ることが目的になり、運動はそのための手段に変わっていたのである。そのため、行政と真っ向から闘うことを避けて、多文化共生を軸とした啓発事業に専念していた。
 周囲を見渡せば、変わったのは私たちの在日朝鮮人運動だけではなかった。労働運動も民間、官公を問わず闘う姿が見られなくなった。大阪の日教組は、卒業式の国旗掲揚、国歌斉唱を事実上推進し、従わない組合員を査問することさえあった。部落解放同盟も差別糾弾から、解放の街づくりにシフトし、福祉事業、啓発事業に余念がない。解放教育推進派の教師たちは、同和教育を守るために国旗、国家を認めるのだと公言してはばからなかった。差別という言葉がいつの間にか消え失せ、どこを向いても人権が氾濫するようになった。以前に比べればましになったとはいえ、公害はいたるところに散見される。しかし、これを今日では環境問題と呼び、一人一人が各家庭で地球に優しい暮らしを実践することが求められるようになった。時折、産廃の問題が新聞紙面を飾るが、指弾されるのは零細の産廃事業者だけであり、廃棄物を産出する大企業は出てこない。中国産食品の基準を超える添加物は問題になっても、国内でなお大量に使用される添加物や農薬を製造する大企業は問題にすらされない。農薬問題に敏感な人たちは、自分たちで、有機無農薬栽培に取り組むばかりで、農薬で莫大な利益を貪る大資本や農水官僚との対決は見られない。
 今日の世界的課題といわれる人権と環境は、この国では一人一人の努力に委ねられ、問われるのは自己責任であり、その陰で支配権力は安泰を決め込んでいる。
 私はこれらの動きが、どうしても私たちの運動を停滞させた多文化共生論と無関係ではないように思える。共通点が少なくないからである。第1に、問題の最大要因である企業、行政と闘わず、個人の自己責任として把握し、個々人の人間関係のあり方に解消する傾向。第2に、社会的格差や不平、歴史的責任という物理的課題を文化の問題に歪曲し、その解決を異文化理解に求める傾向。第3に問題の性質が歴史的、社会的に異なりその解決法が異なるにもかかわらず一般抽象化(例えば個々の差別を人権で括る)する傾向。第4に、これらの課題を解決する主体を行政に求め、問題を提起した運動体が助成金を得て行政の管理下で取り組みを行う傾向。
 これら全てに共通するのは、市民や運動体までもが国家、行政の支配に従順として従い、国家、行政の政策による現実の社会的格差や不平等に目をつむることである。これは在日朝鮮人の歴史から見れば、同化論の再現であり、形を変えた新同化主義ともいうべき支配思想である。しかし、事は容易ではない。多文化共生論は企業、行政がこれを積極的に推進し、運動体もこれに何らの疑問も抱かず、企業、行政と一体となって推進しているからである。国家、企業、運動体が一体となって推進する異様な光景は、北朝鮮帰還事業を彷彿させるに十分である。またもや、国家に翻弄される在日朝鮮人の姿がここにある。